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知識と信奉と解脱 [雑感]

 民主党政権の末期頃、「マスコミは不当に民主党ばかりを叩いている!」と憤慨するブログ記事を書いていた某大学教授がいた。叩かれるべきものが叩かれているだけのことで、しかもそれは与党の時の自民党への批判に比べれば馴れ合いにしか見えない程度のものだったが、それでも民主党支持者らしきこの人は、マスコミが自民党に操られているかのように論じ、憤っていた。
 政権交代に大きく興奮し、夢を見ていた一人なのだろう。政治が専門ではないとはいえ仮にも知識人に分類される人が、あの政権交代に喜び、末期になってもまだ醒めていなかったのだとすれば、まったく呆れかえるばかりで、ブログ記事の中心となっている専門分野に対する信頼性も薄れてしまう。その専門分野についての関心からこの人のブログを覗いていたのだが(覗いていた理由は他にもあるが省略)、すっかり興ざめてしまった。
 先日、久しぶりにその人のSNSを覗いてみた。以前と同じで政治に関する発言が中心ではないのだが、つい最近の記事に、自公政権に大きな不満はない、と書かれている。何があったのかは知らないが、全体の文章そのものにも、かつて見られた不快な攻撃性は薄まり、かつては見下すように評論していた他の研究者についての見解も穏やかになっている。
 自公政権に不満を持たないという現在のこの人が、あのときの民主党政権を、そして自民党に操られていると勘繰っていたマスコミを、そして今でも一部から主張される「自民党がメディアを支配している」「自民党の圧力でメディアが萎縮している」といった声をどのように評価しているのか、聞いてみたいものである。

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憂愁の夏越大祓 [雑感]

 少し離れた土地の某著名大社に、夏越大祓ということで今年も参拝した。
 例年、なぜかこの日の外出時には妙なことが起こる。昨年はここに書いたように、儀式を参観しながらも不穏な言葉を吐き続ける哀れな男との接近があった。今年も何かあるのかと思いながら神社に向かう。
 境内には天候が悪くても大勢の参拝者がいて、相も変わらず、広い拝殿の横に広がることもなく中央部だけに列をなして並んでいる。正面で参拝したいという心情はわかるとはいえ、何のため拝殿も賽銭箱も横幅を取っていると思っているのだろう。こういう時には神社側からもたびたび、中央だけでなく横に広がって御参拝くださいと注意がなされるのだが、まだ中央に並ぶものだと思い込んでいるか、どうしても真正面にて神様と向き合いたいと思っている人が多いようだ。今年は雨の心配もあり、脇から早めに参拝を済ませ、茅輪守りを頂いて儀式は参観せず、そして茅輪くぐりはいつも長蛇の列になっているので例年通りスルーし、帰途についた。
 今年は珍しく何もなかったなあと思っていたら、神社から最寄りの駅に向かう途中で上記の男と一年ぶりに遭遇した。相変わらず哀しげに固定された表情で、何やら文句がましい言葉を吐きながら歩いている。おそらく神社へと向かっているのだろうが、参拝する意志と悪態を吐き続ける病んだ精神との共存は続いているらしい。
 本屋で買い物をし、電車を乗り換える。しかし乗った途端、自宅最寄り駅構内で人身事故が発生したとのアナウンスが流れる。救出作業、やがて警察による現場検証が行われているという報告があり、40分ほど待機したのちようやく発車した。
 神社参拝の際にはたいていの場合、持っていればその神社の御守りを携帯し、新たに神威を充足させたつもりにしているので、御守りが二つ、そして頂いたばかりの茅輪守りが鞄に入っている。死や流血を避ける意識の強い神社の御守りとともに、悲惨だったかもしれない事故直後の現場に足を踏み入れなければならないのは、御守りや自身にとって果たして良いことか、それとも悪いことか。偶発的な事故か意図的な事件かも知らないが、いずれにしても暗澹たる気分で目的の駅に着く。構内は見たところいつもと変わりなかった。ただ、検索してみると、件の「救出」作業の間は現場周囲や電車の窓がブルーシートで覆われ、やはり悲惨な状況だったと思わせる。それ以上の詳細を知ろうとするつもりはない。
 例年、この外出時に妙なことが起こるのは、神社との相性の問題だろうか。思い当たる節はないでもないが、参拝を止めるつもりは今のところない。

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妄想。 [雑感]

 以前、近所の路上において、特定のマンホールだけにペットボトルで水らしき液体をかけ続けているおばさんがいることを書いた。
 最近はそのマンホールが濡れていることを目にすることがなくなった。何らかの事情によって謎の行為は中止となっているらしい。
 さて、そのマンホールがある道路は、某公共施設の敷地に沿っており、200メートルほど真っ直ぐに見通すことができる。そのうち施設自体の塀が150メートルほど延びているのだが、最近、敷地内と塀が整備され、古いコンクリートの塀が一時的なものか簡素なものに変わり、狭い道路がやや広くなってすっきりしている。
 ところが、その塀の起点となる十字路近くにある件のマンホール前の一角だけ、古い塀がそのまま残されている。裏(すなわち敷地内)から簡易な補強がされているとはいえ、今にも倒れそうに傾いでおり、なぜこの部分だけ放置されているのか、さっぱりわからない。
 ある日、ふと気がついた。水で清められていたらしいマンホールと、憚りがあるかのように手つかずのまま放置されている古い塀。マンホールの件だけならおばさんの奇妙な行為に過ぎないのかもしれないが、隣接する塀まで敷地の管理者によって禁忌らしき特殊な扱いをされているのだとしたら、この一角に何かしらの曰く因縁が秘められているのではなかろうか。そんな妄想が沸き起こりつつも、いつも歩いている場所だから、もし本当に何かがあったことがわかれば気持ち悪いので、詳しく調べるつもりはない。

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研究心と愛国心 [雑感]

 韓国で一部の歴史研究者が徴用工像設置に反対する活動を行っているらしい。彼らの行動の根拠は、戦時中の労働者の大半は強制的に日本へと連行されたのではなく、給与も貰っていて奴隷のような存在でもない、というもので、したがって韓国内で歴史歪曲が行われているゆえのことだからというものである。
 しかし残念ながら、かの国の世間的には、ほぼ無視され、あるいは売国奴だと罵倒されているような有様だという。なので認識の正常化を期待することは難しいのだが、ごく一部でもそのような研究者があちらにもいることは知っておいて良いことであろう。
 ただ、気になった点がふたつある。
 ひとつは上記の FNN PRIME ONLINE の記事、題目中に「ソウルの中心で親日を叫ぶ」とあることだ。親日とは何のことだろうか。彼らが親日か反日か、あるいはどちらでもないのかは知らないが、歴史的事実はこうだから徴用工像設置に反対する、という主張は、方向性はどうあれ事実を土台としている限り研究者として正しい態度である。研究において真実を探り主張することに、本来、親も反もない筈で、結果的に日本側を擁護することになるからといってそれを親日と表現するのは、研究者としての彼らの姿勢を愚弄するものになりかねない。
 そしてもうひとつ気になったのは、同様の研究態度で慰安婦問題を探ってみたらどうだろうかという点である。そういったことがこのような研究者の中で行われているのか、それとも行われていないのか。少なくとも日本国内において、この問題に関しての従来のフェイクはかなり覆されているだけに、何とかなりそうな気もするのだが。
 もはやかの国では信仰の域に達している感のある反日感情に、客観的な検証や史料は届くや否や。

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レッテル貼りとマウント取り [雑感]

 子供を最低三人くらい産むようにお願いして貰いたい、という元大臣の発言を問題視する人たちがいる。まるで、新しい元号の発表を受けて「元号制度の強制に反対する」と声を挙げていた連中のようだ。
 後者は元号の背景にある皇室の存在に対する思想的政治的な反撥から、強制でもないものを、あるいは多少の強制力があったところで何の支障もないものを、殊更に否定している。そして前者も、ある反撥から、強制ではないものを強制だと見なして文句をつけているわけである。
 あるいは出産に関わることはデリカシーの問題だともいうが、喜ばしいことを期待することさえ憚れるというのであれば、もはや慶事のお祝いすら躊躇われる。少子化対策担当大臣も十年以上設置されていて、なんとか少子化を食い止めようとしているというのに、子供がたくさん産まれることを期待してはいけないらしい。
 この元大臣に対する妙な連中による反撥というのは、意図的もしくは無意識のうちに、「失言する政治家」というレッテルを貼っていることによると思われる。
 かつて麻生元総理に漢字の読み書き間違いが話題となったとき、間違いではないことすら殊更に指摘され、嘲笑が増幅されていた。「お心づかい」を「お心ずかい」と書いたことなど、麻生氏の世代ではそのように表記するような教育があったことを知らないマスゴミ人が無知をさらけ出して叩いていた。また福田元総理が五輪選手に「精々頑張って」と言ったことが問題視されていたが、これも「せいぜい」は本来、力の限りを尽くすという意味であり、嫌味な使い方しか知らない無知な人間が、自身の狭い知識を絶対視して批判していただけである。
 元号にしても出産にしても、強制でもないものを強制だと批判するのは、自身を被害者に見立てて、加害者に対する有無をいわせぬ糾弾をなし、逆に「マウントを取る」ことをしているのであろう。まるで、勇猛である筈の軍人が監視飛行中の自衛隊機から「威嚇されて恐怖を感じた」と恥も外聞もなく弱者を演じ、火器管制レーダーを照射する自らの行為の正当性を主張するようなものだ。
 まったく身悶えするほど恥ずかしく、かつ、おぞましくも不愉快な話である。

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印税と契約 [雑感]

 印税2%が話題になり、そんな契約で引き受ける方も悪いといった声もあるらしい。ただ、この作家の場合はどうなのか知らないが、自分のごく僅かな出版経験において、今まで一度も出版前に契約内容を提示されたことはない。口約束すら、なかった。売れっ子や大御所の書き手ならともかく、代わりの執筆者はいくらでもいるような立場としては、金銭的な条件などはとても口に出せるものでなく、それを知ってか、編集者も敢えて触れようとしない。
 書き終えて、ゲラのチェックも終えて、印刷されて店頭に並ぶ。それから契約書を作成中だとの連絡が編集者から入り、やがて送られてきた。中小規模のいい加減な会社ではなく、誰もが知っている有名大手出版社である。
 別の有名大手出版社からは契約書すら来なかった。執筆の話を持ってきた編プロと出版社が結託したかどちらかの口車に乗せられたのか知るよしもないが、本が出たあと、両社のみで契約を交わし(後で聞いた話。単著で著作権の名義は自分なのだが)、やがて一方的に編プロから印税の六割分があなたの取り分だと連絡があって、振り込まれただけである。自分と編プロとの間に契約も事前の口約束もない。印税率は10%だったとはいえ、約半年かけての報酬が同年代の平均月収を少し上回る程度の額だった。
 とある中規模出版社では、やはり半年ほどかけて書いた本が売り出されて契約書が届き、内容を見て、いたく落胆した。印税の対象が発行部数ではなく実売部数で、しかも8%、実際に入ってきたのは発行部数の10%として想定した額の三分の一だった。
 また別の中規模出版社では、これは編著者の下での分担執筆で、増刷がかかったのは良いものの、増刷分の印税の支払いはないと編集者から告げられた。契約書でそのようになっていたか確かめていないが、いずれにしても出版後の通知である。この本、今では六刷を迎えて増刷のたびに本が送られてくるのだが、喜ばしく思っているのは出版社と印税を貰えているであろう編著者ばかりで、自分にはすでに虚しい、そして少し腹立たしいだけの増刷である。
 なお上記の印税10%というのは一昔前の話である。最近では8%でも多い方だと聞いていたが、2%とは、もうすでに出版文化とそれに関わる諸々の文化的営みに、未来どころか現在もないのかもしれない。

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時代を語る [雑感]

 ある人がある人の行動に対し、「そんなことは今の時代に合わないよ?」と批判めいた論評をしていた。つまり、時代に合わせろ、ということだ。
 一方で、時代と言えば、「時代に迎合するなよ」という批判も定番といえるもので、時代ではなく自身の判断に従うのがよいともいう。つまりは時代に合わせると合わせないとの、どちらの立場でも批判は可能なのである。
 結局は「時代」の問題ではなく、それを口にしている人が持っている価値観によってどちらに寄せる批判もできるということであり、「時代」を引き合いにすることで、自分が今をいかに正しく認識しているか誇示しているのであろう。より具体的な提示を伴わない限りでの、漠然とした「時代」との比較は、たいていの場合、軽薄で胡散臭い。

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批判と誹謗と難癖 [雑感]

 一人の外国人が犯罪を起こしただけでその外国人が属する国や民族への批判や侮辱を展開させたなら、普通はヘイトスピーチとして逆に非難される。しかしこの種の憎悪表現は、場合によって非難され、場合によっては容認もしくは無視されたりする。
 某元総理が前五輪担当相の例の発言を「これは自民党のホンネではないのか」として自民党を批判した。自民党の本音だと判断する根拠を示さない上でのこのような批判は、単なる誹謗中傷でしかないのだが、この種の誹謗中傷は特定の思想や集団、またマスコミやネットにかかわらず生み出され、そして一部からは反論や嘲笑を受けることはあっても、社会的にはたいして大きな批判は起こらず、繰り返し垂れ流されている。他者のヘイトスピーチを非難する言葉そのものが偏った憎悪に突き動かされてであったりもするから、まったく始末に負えない。ゆえに、ヘイトスピーチというくくりで法的な規制などをするには無理があろう。
 なお、例の前五輪担当相の発言は、福島の被災民を侮辱した発言と一概には言えない。なぜなら、Aを前にしてAを称える意味で「BよりもAが大事」だというのは、Bに相当の大事な何かを持ってこないと、Aを称えることにはならないからである。もちろん、もしこの言葉がBの関係者の耳に入れば不快なことは間違いなく、失言や失態がないか鵜の目鷹の目で監視されている大臣として不注意であったとはいえるだろうが。

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令和の言霊 [雑感]

 承平の乱や平治の乱など平の付く時代には争乱があるというのに、どうして平成という不吉な元号にしたのか、と某研究者がかつて不満を述べていた。決定者たちの歴史への無知を、さらには言霊への無知をも憤り、平成という語の持つ言霊が阪神淡路大震災などの災厄を引き起こしたというのである。
 では大空襲や原爆を受けた昭和、関東大震災の大正、濃尾地震や東北に大津波を引き起こした三陸地震の明治、といった元号の言霊はどうなのかと思うが、人は目の当たりにした惨状ばかりを意識してしまうのだろう。平成は民主党政権の誕生を含め、まさに災厄の起こった時代と言えなくもないとはいえ、元号の言霊が災厄を呼び込んだというのではなく、到来する災厄を予見させる元号が生まれたのだ、と考えることも可能である。いずれにしても検証不可能の非科学的な妄想ではあるのだが。
 さて、令和という次期元号が何を招来し、または何を予見させようとしているのかは無論わからない。ただ言えるのは、令の字を冷淡とか命令とかの意味へと偏って受け取り、否定的な見解を開陳するという、自民党や安倍政権の仕事には何でもケチをつける妙な連中が相も変わらずいるということだけである。令を名前に持つ人は少なからずいるわけで、玲や怜なども含めるなら更に多くなる。令への否定的な感情の表明は、そのような名前への嫌悪感をも表明していることになっていることに、かの妙な連中は気づいているのかどうか。

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留美子の世界 [雑感]

 ずいぶんと遅い反応になってしまうが、国際漫画祭で功労賞を受賞したということなので、いい機会だから高橋留美子の作品について書いてみる。単なる個人的な思い出話、および賛嘆のための文章である。
 初めて高橋の漫画を読んだのは、最初に小学館漫画賞を受賞した際に「うる星やつら」の名を知ったときだから、いま調べてみると昭和55年のこと、特に期待することもなく本屋で立ち読みした。単行本の一巻から三巻あたりまでだったかと記憶している。ビキニ姿の娘の表紙を見て、たわい無いコミカルな漫画だろうと軽く落胆しつつ読んでみて、衝撃を受けた。珍しくドタバタSFであり、それでいてまとまりがあって下品ではなく、当時の少年誌では見られない面白さだった。初期の頃の絵は、正直言ってあまり上手くはない。しかし漫画を創ることの巧みさは、さすがに賞を貰うだけのことはあると感じた。この思いは今でも変わらず、作品を造り出すことの巧みさは随一だろう。
 衝撃を受けながらもそのまま帰宅した。が、鬼娘の姿が頭から離れない。初期の拙い絵にもかかわらず、強烈に魅了されてしまい、翌日、すぐに本屋へと走り、手持ちのお金で買えるだけの巻数を揃え、置いていない巻は注文までした。やがて「めぞん一刻」も刊行され、高校生から浪人生、そして大学生といった期間を、まさに共に過ごした。
 その後、「らんま1/2」や「犬夜叉」を経て一昨年に完結した「境界のRINNE」は、少年誌における高橋の長期連載漫画として、ひとつの到達点というべき作品ではないかと思う。各話の完成度の高さに、各話毎に珠玉の作品という印象を受けた。40巻も続いたというのに早期に終了してしまった感が強く、アニメ化もされて人気はあったのだろうが、もっと評価されてよい作品であろう。
 さて、件の功労賞を授与した漫画祭の主催者は、高橋の作風について「出るくいは打たれる(日本)社会で、アウトサイダーや変人を前面に押し出し、彼らにもチャンスがあることを示そうとこだわった」と述べたそうだが、魅力の本領からはずれた評価でしかない。「社会」の前に(日本)とあるのは翻訳者による補足か、元からそうなっているのかはわからないが、妙に現実の社会に対する風刺やら主張やらと絡めた理解や説明を捏ねようとするのは、まったく興醒めである。

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