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嘘と誤魔化し [報道]

 例の学術会議の問題について書こうかと思ったが、あれは初めから野党や一部左傾学者たちによる批判が無理筋であり、騙される人も少なく、もはや今さら感がある。まあモリカケの問題と同じで、とかく自民党政権には反撥しなければ気が済まない偏執狂的な人たちはいつまでも騒ぎ続けるのだろうが、いつになったら自らの首を絞めていることに気づくのやら。今は別のことについて書く。
 少し古い記事だが、妙に話題にもならなかったので不思議に思っていることだ。ひとつは七月末の毎日新聞による配信記事。李登輝元総統の葬儀に政府特使の派遣がないことを伝えるもので、そこには菅官房長官の会見を基に次のように書かれている。

 「一つの中国」の原則を掲げる中国との関係に配慮し、葬儀への政府特使などの派遣は「予定していない」と述べた。
 
 この毎日新聞の記事は、内容は間違っていないが、妙な誤魔化しがある。これではまるで官房長官が中国に配慮したように読めるが、実際は配慮なんて言葉を長官は使っていない。会見の模様を確認すると、記者との問答は以下の通りだ。

記者「これはやはり、中国への配慮、ひとつの中国といった原則に配慮して、ということでしょうか」
長官「政府としての立場は、台湾に関する日中共同声明にある通り、台湾との関係を非政府間の実務関係とし維持するとの、わが国政府の基本的立場については、何ら変わらない、というふうに思ってます」

 ひとつの中国という原則に配慮する、というのは記者の言葉であり、長官は日中共同声明に則ることを述べただけである。両国間で調印された声明がある以上は、それに従うのが当然であり、法的拘束力はないとはいえ配慮するとかしないとかいう問題ではなかろう。記者自身の言葉と長官の言葉を混ぜた、間違ってないが正しくもない文章だ。

 もうひとつは安倍首相が難病の持病を理由に辞任表明した後でまだ在職中の頃。時事通信の配信記事によると、首相が米大統領と電話会談し、安全保障政策について語ったことを受けて、共産党の穀田恵二国対委員長が次のように言っている。

「行き詰まって辞めるのに、発言の資格もないし最低限のモラルさえ失っている。国の重要問題の方向性について発言するのは異常だ」

 こちらの場合は明白な嘘である。嘘を根拠にした批判であり、もちろん「最低限のモラル」もなく「異常」なのは穀田恵二という人の方であろう。首相が最後まで職務を全うすることを、モラルのない異常な行為と断じる神経はまったく理解不能だ。
 これが立憲民主方面の枝野やら蓮舫やらが語ったのであれば、いつものように嘲笑や冷笑でもって話題になったのだろうが、知る限りは何の浪風も立たなかった。共産党はそんな相手すらされなくなっているということだろうか。

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報道の萎縮とか [報道]

 沖縄県石垣市に陸上自衛隊が配備されることをNHKの番組が取り上げ、そのなかで殊更に近隣の河川をクローズアップし、あたかも水質汚染が懸念されるかのような放送をした。これに対して市議会が偏向報道であると抗議決議をしたため、NHK側は謝罪した、という。
 ネット配信に拠ればこのような経緯が沖縄タイムスによって報道されているのだが、その記事の文末に、市議会の抗議決議に対して「識者らからは報道が萎縮することへの懸念が示されている」と記されている。
 識者というのが具体的に誰なのかは分からないが、そのような問題についての発言をする知識を有する者ということだから、耳を傾けなければならない意見として特筆されているのであろう。素人の意見よりは専門家の意見を尊重するべきで、絶対とまでは言えなくとも、専門家の意見の方が正しい可能性が高い。
 つまり、このような場合の「識者の懸念」は、より正しい意見という意味であって、沖縄タイムスは市議会の抗議決議を批判的に見ているわけだ。マスコミの放送や報道に虚偽や偏向があろうと、それに権力側が文句をつけるのは報道の萎縮をもたらすから、黙ってろ、ということである。
 萎縮を盾に取って自らへの批判を封じるというのは、すでにいろんなところでも指摘されているように、まったく卑怯としか言いようがない。そもそも権力側から批判されても、マスコミは萎縮するどころか、逆に権力側への批判をヒートアップさせるばかりであり、このような「弱者的立場」を装って自己正当化しつつ他者を上から目線で威嚇することを、マスコミの人間は情けないと思わないのだろうか。
 ただの偵察飛行に、威嚇された、怖かった、と弱者を演じ、それを盾にして反撃の正当性を主張した某国の軍人と同じ性格であり、本当に呆れるほどマスコミの人間と彼らはよく似ている。

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中高生時の容疑者 [報道]

 悲惨な事件の報道についてのネット上のコメントに、被害者に関する報道を控えよ、とするものが目立っている。もちろん過剰であるならそのような意見が出てもおかしくないが、事件の翌日にそんなコメントが出るというのは、まったくどちらが過剰な反応なのだろう。そういう主張ができるのは主に被害者の遺族であり、そっとしておいて欲しいという要望もあれば、生きていた証としてみんなに知って欲しい、という要望だってあり得ると思うのだが。
 五輪代表選手に「国のためではなく自分が楽しむことを考えて」と、勝手に国のためという思いを棄てさせようとするモチベーションの押しつけに似ている。
 より不思議に思うのは、容疑者の直近の顔写真が見つからないからといって、中学生や高校生の時の写真をこれでもかと繰り返し映し出すことである。この幼い顔をした中学生が凶悪な犯行をしたのか、と思わず錯覚してしまいそうになる。何のための使用なのか、まったく理解できない。

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祖先と神 [報道]

 NHKのニュース番組で伊勢神宮の「内宮は皇室の祖先の天照大神が祀られています」と説明されたことに対し、批判の声が挙がったらしい。確かに公共の電波では「祖先とされる天照大神」とするのが適切だろう。
 ただ、天照大神を祖先と言い切ったことを「現人神宣言か」と危険視するのは、無知ゆえか、もしくは意図的で強引な問題視といえる。神が祖先だからといって子孫も神と考えられるわけではなく、神を祖先としているのは天皇や皇室だけではないからである。藤原氏の祖先神は天児屋命、忌部氏の祖先神は天太玉命、安曇氏の祖先神は綿津見神など、基本的に日本人の祖先は、もちろん伝承や信仰の上では、神に行き着く。批判や懸念の根本がずれているのだ。
 元民放テレビディレクターで現某大学教授の水島という人が同じくこの報道の仕方を批判し、「断定するとは『事実だと認定する』ということ」で、「神話の世界の人を実在の人物であるかのように伝えるのはオカルトである」という。短い説明なので仕方ないのかもしれないが、この批判にも多少の引っかかりを感じる。皇室の祖が天照大神であるという伝承そのものの存在は事実であり、また祖先という概念を現実的に確定している人物のみとするか、より漠然とした「祖」をも含めるかは、必ずしも定まってはいないだろうからである。
 祖先ではなく「祖先神」と説明されていたならば、神という概念そのものが確定的な存在ではないために「とされる」といった表現と同等になると思われるが、それでもこの人は文句をつけただろう。「神話の世界の人を実在の人物であるかのように」という文章に見られるように、なぜか神を人に言い換えるというバイアスのかかった論証をしようとしていることから、そのように感じられる。天皇の祖先を天照大神という神であるとする伝承すら、決して認めたくないといった感情に基づいての言い換えと思われる。
 そして「オカルト」という指摘についても、適切ではないだろう。断定が報道として不適切なのは確かだが、確実に存在しているそのような伝承や信仰を指してオカルトという表現を用いるのは、直接的な貶めではないとしても不用意な表現といえよう。
 この人の記事中にはまた、「いろいろな説を主張する人がいる場合には断定的に表現しないのがニュース原稿の鉄則である」ともある。何かとあれば「諸説あります」と逃げ道を用意するのは最近の傾向とはいえ、これは嘘である。いちいち挙げないが、特定の問題に関してはいろんな意見を無視して断定的に報道している。
 なお、NHKという局はかつて、日本神話を題材にした場合の多くにおいて、大国主神のことはオオクニヌシノミコトとミコトをつけるが、天照大神はアマテラスと呼び捨てしていた。反保守の報道も目立ち、基本的には右派と中道が多少はいて、中軸にいるのは左派だと感じられる。左が少し右を向いただけで極右だ戦前回帰だファシズムだと青筋立てて騒ぎ立てる、いつものヒステリー的な騒動と何ら変わらない。

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自己責任 [報道]

 安田某に対して「自己責任」という言葉を批判的に投げかけることについて、「安易に自己責任という批判をするな」という反論がときおり見られる。ならば、安易に自己責任を放棄するな、テロ組織に大金が渡ったというのに安易に擁護するな、という再反論も可能であろう。
 この件に関しては、当人が自己責任を主張して渡航を敢行し、しかも結果としてテロ組織を金銭的に支援する形となってしまったわけだから、自己責任を根拠に批判されるのは当然である。そこを無視して擁護に傾斜するのなら、もはや何らかの意図により状況無視で最初から対象の人物に肩入れしているとしか言いようはない。
 すでに、前川某やら籠池某やら、批判されるべき点がなぜか無かったかのように、何らかの目的によってマスコミや特定の知識人により異常に持ち上げられている人物を幾人も見ている。特に安田某はジャーナリストを自称しているため、反政権側の人間ばかりでなく、仲間のジャーナリストやその周辺の連中から擁護されやすい。
 この件に関連してのことかどうかはわからないが、以前に目にした某人のツイッターに、「自己責任を国民に要求するような国には税金を払いたくない」といったつぶやきがあった。状況次第、程度次第で自己責任というものは発生したり、しなかったりするはずだが、状況を無視してひたすら国を叩いていれば良いという、反権力や反国家の思想は、いわゆる中二病と何ら変わらない。

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露悪的報道 [報道]

 少し前に金某が無遠慮にロケットを飛ばし、成功して満面の笑みを浮かべている画像やら映像やらがしきりにテレビに映されていた。しばらくすると今度は、死刑執行された某教団の教祖や幹部らの顔写真がアップでしつこいほど流されることになる。気持ち悪くて仕方ないから、ますますテレビから遠ざかる。昔と違って今は大型で解像度の高い機種が多いというのに、なぜそんな顔ばかり大きく映すのか。いったい何の宣伝、もしくは何の嫌がらせなのだろうか。

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根無し毒草 [報道]

 抑圧され独立を希求している民族が自らの文化や伝統に対して持っている矜恃は尊重されるが、すでに独立している民族が持つそれの場合は、国粋主義だ排他主義だと批判される。
 このような二重規範、ダブルスタンダードはさまざまな事象に対して、至るところにおいて見られるものだ。相手次第で、主導的とする賛嘆と強権的とする批判、民意だという正当化と数の暴力だという否定に分かれたりする。資産家の政治家を嫌みたらしく見ていたマスコミ人が民主党政権成立初期の頃、こぞって鳩山某のことを育ちがいい品があると持ち上げていたことは記憶に新しいし、最近では天下り斡旋で退職に追い込まれた某前事務次官が政権批判に使えると見るや、後輩の面倒見が良いと手の平を返して持ち上げたりしている。
 相手次第で変わることのない評価が信頼できる客観的な評価であり、そのような判断を下せる人間こそ、いわゆる頭の良い人だろう。そんな人間をマスコミ界や野党に求めることは無理難題だと、今の狂乱ぶりを見ればもはや解りきったことだが、その場しのぎで自分勝手な評価を弄んで国を混乱させる手法が蔓延っている限り、マスコミにも野党にも、そしてこの国にも明るい未来はない。

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もし~だとしたら [報道]

「もし~だとしたら、ひどい話だ」「もし~だとしたら、絶対に許さない」という、仮定の話から断定的に非難へと結びつける表現は、ずいぶん以前から掲示板やブログなどでよく見かけられる。だいたいにおいてほんの数行の書き込みだから、仮定にどれだけの説得力があるのか提示されることはなく、結果として仮定に誤りがあっても後に訂正されることも滅多にない。煽りや釣りの類としての面白半分か、もしくは本気の書き込みなら単に知性の足りない子供じみた感情的な物言いだなと気になっていた。
 それがここ数年、大手の新聞テレビ等でも、「もし~だとしたら大問題だ」というフレーズが氾濫しているように思える。政治家が政敵に対してこのような表現によって批判することはよくある。それはそれでまた批判の正当性が証明されない限りは、印象操作を狙っただけの幼稚な悪口に過ぎないもので閉口させられるが、同類の感情的な語り口が大手マスメディアからもなされるというのは、呆れかえるという表現だけでは済まされない状況といえるだろう。
 強いて言えば、呆れるというより恐怖に近い。

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不倫報道 [報道]

 著名人の不倫報道について、「夫婦や愛人という当事者の間だけの問題だから、マスコミなどの他者が騒ぐことではない」という意見をよく目にするようになった。が、世の中のたいていの「問題」は、当事者の間だけにおけるものであって、誰かが誰かを殺したという事件も世の中のほとんどの人にとっては無関係だが、だからといって報道しなくてよいわけではない。
 しかも上記のような意見は、違法でなければ何をしても良い、といった下衆の発言のようで、行き過ぎた報道も顰蹙ものなら、倫理性を無視するのもまた同じく褒められたものではない。違法の場合は勿論のこと、倫理に照らして批判されるべきことはやはり批判されるべきであり、程度にもよるが倫理上のことで問題視されることそのものは、むしろ無ければ不自然であろう。
 より深刻なのは、法的にも倫理的にも問題ないにもかかわらず、特定の思想や政治的な目論見によって、公的な場において一方的な批判が垂れ流しにされる事態が存在していることだ。

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漏れと逃れ [報道]

 今月26日の毎日新聞ネット記事に、「宇佐神宮が課税逃れ 50年以上か」という見出しがあり、読んでみた。本文の冒頭には次のように書かれている。

 大分県宇佐市は26日、法解釈を誤り、市内の宗教法人に対し、固定資産税などを長期にわたり課税漏れを続けていたと発表した。宗教法人の名前は非公表としたが、国宝の宇佐神宮とみられる。

 この文章を読む限り、市が法解釈を誤ったために課税漏れが発生したわけで、すなわち非は法解釈を誤った市にあることになる。しかし見出しには宇佐神宮が課税逃れ、とあり、一見するとまるで宇佐神宮が主体的に50年以上も課税から「逃げ」ていたように読めてしまう。
 税法上の問題はわからないが、「市の誤りによる課税漏れ」と、それによる「宇佐神宮の課税逃れ」は、意味するところは同じとはいえ、同一の事案に対する表現として正しいのだろうか。宇佐神宮の名称を見出しに書いてわかりやすくしたいのなら、「宇佐神宮への課税漏れ」とすればいいだけである。文字数としても一文字増えるだけで、本文に使われている表現を変えることもない。課税逃れという表現を見出しに用いることに幾許かの悪意を感じるのは、過剰反応だろうか。

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