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差別語としての宗教 [宗教]

 某タレントが某政党に投票した人たちについて、気持ち悪い、ふざけている、宗教的、といった評価の発言をし、党首が激怒しているという件、世間的には党首の奇矯な言動に対する不信感のせいか、あまり某タレントへの批判が高まっているようではないように見える。
 しかしこれは、党首の言動はともかく、某タレントの発言そのものに大きな問題がある事案だろう。政治家当人への批判なら、それが確とした根拠を伴っている限りは問題ないだろうが(根拠を伴わない雰囲気のみの批判が大部分ではあるが)、投票者にどのような動機があったにせよ、投票という行為を推測で罵倒される筋合いはない。
 推測とはいえ感じた批判的感情を主張する権利があるのだとしても、その批判に「宗教的だ」という文言が使用されるのはまたどうかと思われる。この場合の宗教的というのは、非理性的な盲信という意味合いで使われているのが明らかで、このような使用例は投票者への愚弄のみならず、宗教に対しての偏見と侮蔑を意味する。信仰=盲信と決めつけた上での信仰者に対する嫌悪感があるからこそ、批判的言辞においてこの言葉が用いられている。
 いわゆるスピリチュアリズム系のサイトを見ると、「当方は宗教ではありません」との但し書きが添えられていることが多い。またそれ系の書き込みにも批判する文脈で「まるで宗教みたい」とあったりする。宗教とは乗り越えなければならない過去の遺物という位置づけなのである。外から見れば、そういったスピ系の理屈や世界観には、批判的に使用される意味での「宗教」性が大部分を占めているように見えるのだが。
 特定の宗教や教団に対しての差別、宗教差別をしてはならないことは多くの人が理解しているだろう。にもかかわらず宗教そのものに対しては差別的な感情をもって語りがちである。話題になり印象に残るカルト的教団や、そのような教団に盲目的に従う人ばかりが宗教や信者ではないということに、もう少し目を向けるべきであろう。

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