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差別語としての宗教 [宗教]

 某タレントが某政党に投票した人たちについて、気持ち悪い、ふざけている、宗教的、といった評価の発言をし、党首が激怒しているという件、世間的には党首の奇矯な言動に対する不信感のせいか、あまり某タレントへの批判が高まっているようではないように見える。
 しかしこれは、党首の言動はともかく、某タレントの発言そのものに大きな問題がある事案だろう。政治家当人への批判なら、それが確とした根拠を伴っている限りは問題ないだろうが(根拠を伴わない雰囲気のみの批判が大部分ではあるが)、投票者にどのような動機があったにせよ、投票という行為を推測で罵倒される筋合いはない。
 推測とはいえ感じた批判的感情を主張する権利があるのだとしても、その批判に「宗教的だ」という文言が使用されるのはまたどうかと思われる。この場合の宗教的というのは、非理性的な盲信という意味合いで使われているのが明らかで、このような使用例は投票者への愚弄のみならず、宗教に対しての偏見と侮蔑を意味する。信仰=盲信と決めつけた上での信仰者に対する嫌悪感があるからこそ、批判的言辞においてこの言葉が用いられている。
 いわゆるスピリチュアリズム系のサイトを見ると、「当方は宗教ではありません」との但し書きが添えられていることが多い。またそれ系の書き込みにも批判する文脈で「まるで宗教みたい」とあったりする。宗教とは乗り越えなければならない過去の遺物という位置づけなのである。外から見れば、そういったスピ系の理屈や世界観には、批判的に使用される意味での「宗教」性が大部分を占めているように見えるのだが。
 特定の宗教や教団に対しての差別、宗教差別をしてはならないことは多くの人が理解しているだろう。にもかかわらず宗教そのものに対しては差別的な感情をもって語りがちである。話題になり印象に残るカルト的教団や、そのような教団に盲目的に従う人ばかりが宗教や信者ではないということに、もう少し目を向けるべきであろう。

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饒速日命と勝速日 [宗教]

 あるドラマの番宣に道場のシーンがあり、その壁に、「正勝 吾勝 勝速日」と三行で書かれた掛け軸だか何かが見えた。
 日本神話に詳しい人ならご存じだろうが、天照大神の御子に、『古事記』の表記で「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」という神がいて、その名の一部と合致する。神名の核はオシホミミだから、この名を修飾する語句と言ったほうがいいかもしれない。地上に降臨する邇邇芸命の父親であり、本来ならこの天之忍穂耳命が降臨する予定だったとされる。ちなみに、邇邇芸命も正しくは「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命」という長い名である。
 映画のマトリックスで、饒速日命の名を記した掛け軸か何かが道場に掲げられており、なぜ饒速日命なのだろうとかつて不思議に思ったことがある。天照皇太神、または鹿島大神や香取大神ならば武道場ではよく目にするものだが、饒速日命は物部氏の祖神とはいえ、とくに武道とは関係ないであろうし、また天忍穂耳命も同様に武神というわけでもない。饒速日命は表立って活躍した邇邇芸命や神武天皇の背後に隠された神、という位置にあるため、マトリックスの世界観を表象させているのだろうかと考えてみた。そして某ドラマの件は、この饒速日命とは「速日」が重なるため、単なる出来の悪いパロディだろうかと思った。
 だが正勝吾勝勝速日について調べてみると、合気道の創始者、植芝盛平が修練によって得られた境地を表した言葉、といったもので、実際の合気道道場に掲げられているらしい。植芝は大本教の信者だから、神名に由来した表現を用いたのだろう。
 ということは、マトリックスの饒速日命は、この正勝吾勝勝速日から着想を得たということだろうか。単に表記上の類似によるか、世界観の表象まで意識していたかは、わからない。

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隠れ基督教徒 [宗教]

 迫害に遭っても隠れキリシタンが自分たちの信仰を捨てず、守り通したことは美談のように語られるが、神社や観音像を隠れ蓑に使うことは、神道や仏教に対する冒涜に他ならない。実際に迫害されていた時代ならともかく、その心配の無い現代において、まだ幾分かはそのような信仰の在り方にこだわるのはあまり誉められたものではなかろう。
 この世から差別がなくならないのは、差別する側ばかりの問題ではない。

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宗教と課税 [宗教]

 掲示板等に書かれているような宗教批判の文言は、ほとんどが単に宗教をよく知らない故の偏見と以前に書いたことについて具体例をもうひとつ。
 宗教法人に対して非課税の部分が多いことに批判的な意見が多いようだが、これは批判とすべき事柄ではない。なぜかというと、税を普通に課してしまえば、日本の伝統宗教の文化は多くが瓦解してしまうからだ。
 神社もお寺も、一部の大規模の組織を除いて、ほとんどが零細な法人であり、僅かなお賽銭やお布施だけでは「儲け」などまったく出ない。宮司の肩書きを持っていても普段は会社で働いて生活費を稼ぎ、祭のときにスーツから神主の装束となってようやく神社を維持していたりする。
 大規模で著名な神社なら丸儲けかというと、そうでもない。大きければそれだけ管理する摂社末社も多くなり、建造物の維持、人件費、祭祀執行の費用など莫大にかかる。
 金回りの良いきらびやかな一部の新宗教の姿をもって、それを非課税ゆえの宗教法人の姿だと思って批判するのは、大きな間違いである。新宗教には課税して伝統宗教には課税しないといった差別を設けるわけにもいかないであろうし、伝統宗教と新宗教の区別も難しい。ある仏教の僧侶が「新宗教はいけませんねえ」と嘆いているのを聞いて、創価学会とかのことを言っているのかと思ったら、鎌倉仏教のことだったという笑い話もある(うろ覚え)。
 宗教を隠れ蓑にして金儲けに勤しんでいる宗教者もいるのだろうが、政治家は賄賂を貰い、アイドルは枕営業しているのだ、といった決めつけと同じで、どの世界でも見られるように、そういう人もいるという程度のことだ。宗教思想を含めて儀式も建造物も、多くが文化的価値を持っていることを忘れてはならないだろう。

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参拝の仕方 [宗教]

 某神社の宮司が、参拝に際しては目を閉じて願い事をするのではなく、目を開けてするのが正しいと某テレビ番組で主張していたらしい。理由は、神職も祈祷において目を閉じることはないし、また相手を見て願い事を伝えるのが礼儀に適っているから、ということだ。
 これが神社本庁で指導されている参拝法かどうかは知らない。しかしそうだとしても、このような作法と根拠に妥当性はない。おそらくはその宮司の個人的な見解だろう。
 まず神職と参拝者を同列に考えるのがおかしい。神職は書かれた祝詞を読み上げ、所定の作法と工程をこなさなければならないから、瞑目していては務まらない。神と参拝者の中継ぎをする役割の神職を、参拝者と同じ位置づけにする必要はない。
 そしてなによりも、相手の目を見て話をするという礼儀は、あくまでも同じ立場において成立するものだ。今の世の中ではたとえ上司や先輩であっても目を見て話をするのが礼儀であろうが、それは同じ人間だからである。しかし参拝において人が対するのは神であって、決して同じ立場ではない。かつては同じ人間でも身分が違えば目どころか顔を見ることすら憚られていたわけで、それは神聖なものを直視してはならないという禁忌と同根だろう。一般に御神体がどのように奉安され、その理由が何なのか、かの宮司はよく考えてみればいい。
 宮司とか住職とかの肩書きを持っていても、たいして専門的な知識見識を有していない者は多い。問題は、そういった人物の意見を碌に調べもせずに安直にたれ流すだけの番組制作側のいい加減な姿勢にもあるわけだが。

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宗教の価値 [宗教]

 世の中には宗教を毛嫌いしている人が多い。掲示板等に書かれているような宗教批判の文言は、ほとんどが単に宗教をよく知らない故の偏見だが、多少はわきまえている人でも、科学的合理的な見地から否定的にならざるを得なかったりする。
 人はよく知らない事柄に対しては、何か印象的な具体例を知ってしまった場合に、それによって全体を認識してしまいがちである。おそらくオウム真理教事件をきっかけに、宗教に対する嫌悪感を持つ人は増えたのだろう。そうでなくとも、ただでさえ宗教はよくわからないものだ。
 ニーチェの超人思想のように、人が新しい神となるべきという思想は、胡散臭い宗教を切り捨てるものとして評価される。自分自身も、そのような思想は価値が高いと思う。
 しかし宗教がこの世からなくなって良いとはまったく思わない。神や教祖を崇め、教えに従い、困ったときにすがるばかりが宗教ではないからだ。
 宗教的行為のひとつに、自分を生かしてくれているものに対する感謝がある。このような感謝の念は宗教の存在理由のひとつだと思われるが、人が仮に新しい神となれたとしても、生命を育む自然や宇宙にはなれない。技術によってそれらの一部を代行することはできても、取って代わることはまずできないだろう。こういう類の感謝の気持ちを人は失っていいものかどうか。
 食事の際に「いただきます」という感謝の念を示すことを、人によってはどうでもいい作法と思うのだろうが、失って良いものだとは思えないのである。

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180万年前の日本 [宗教]

 シュメール王名表なるものに、古代メソポタミアの伝説的な王の名と在位期間が記されている。人類最初の王とされるエリドゥ王アルリムから以下の数代を、ウィキペディアから引いてみると、
 エリドゥ王アルリム、在位28800年間。
 エリドゥ王アラルガル、在位36000年間。
 バド・ティビラ王エンメンルアンナ、在位43200年間。
 バド・ティビラ王エンメンガルアンナ、在位28800年間。
などとあって、一人の王でとてつもない期間を統治していたことになっている。もちろんこれらの年代についてはあくまでも伝説としか捉えようがないものなのだが、似たような記録はこの日本にも残されている。超歴史の文献としてよく引き合いに出される「竹内文書」などという怪しげなものではなく、日本最初の公式な正史、『日本書紀』のことだ。
 神武天皇の即位前紀に、天皇が「天祖の降跡りましてより以逮、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳」と語る場面があって、つまり瓊瓊杵尊が地上に降臨したのは今から1792470年ほど前のことだ、というのである。
 この年数が何を意味しているのかはよくわかっていない。本来は『日本書紀』にこのような記述はなかったものを、いつしか誰かの書き込みが反映されて本文のように書き写されてしまったのだともいわれるが、本当のところはわからない。
 そして、この百七十九万年という途轍もない年代は、鎌倉時代に編纂されたと推定される伊勢神宮外宮の文献に、更に具体的に記述されることになる。すなわち『倭姫命世記』によれば、
 瓊瓊杵尊、318543年間。
 火火出見尊、637892年間。
 鵜草葺不合尊、836042年間。
といった治世期間が主張されているのである。
 これは『日本書紀』の百七十九万年余という年数を三代に振り分けたのだと思われるが、それぞれの数字に意味があるのかどうかも、やはり不明である。
 現在に直接つながる古代世界のはじまりを太古の昔に想定するのは、神や英雄の神秘性を深め称える心理として地域に関わらず共通しているのかもしれない。それにしても、アフリカを出て各地に広がっていったホモ・エレクトスという最初の原人の出現が百八十万年ほど前であり、その数字と天孫降臨の時期が一致するのは、面白い偶然といえよう。

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新宗教と信仰 [宗教]

 いつもと同じでまとまった論考ではないことを、あらかじめお断りしておく。
 オウム真理教による犯罪行為が問題となったとき、なぜ宗教学者は教団の危険性を察知できなかったのか、との批判を幾度か目にした。しかしこのような批判は的外れで、それは警察や公安の仕事だ。宗教学者はたとえ教団の教義に危険性や反社会性などを認めたとしても、世間に警鐘を鳴らして公然と批判することはない。
 もちろん明確に犯罪が行われていることを知れば司直の手に委ねる行動は取るだろうが、宗教の教義や修行というものは基本的に世俗の常識から外れているものだから、外れているからといって批判の対象とはならないし、できないのだ。神仏の存在や神仏による救いなど、通常の世俗の感覚から外れているからこそ宗教の価値があるといってもいいくらいだからである。過酷な行として知られる千日回峰行について、他者が寺院や修行者に対して非常識で危険な行為だと非難したり無理に止めようとすることは、宗教学者でなくとも憚れることだろう。まともな研究者ならば、宗教に対して一方的な価値判断を下すようなまねはしないものだ。
 しかも信教の自由という観点から、信者の神経を逆なでにすることもしづらいのである。学者でなくとも公然とは批判しにくいのが宗教の持っているやっかいなところで、思想信条の自由は公然と蔑ろにされることがあることに比べ、信仰の場合はその信者による組織の結束力による違いか、批判に対する反動の大きさゆえか、まさに触らぬ神に祟りなしといった扱いとなっている。思想信条の自由が蔑ろにされるという点については、たとえば特定の政治家や政治思想の支持者に対する犯罪めいた誹謗中傷や罵詈雑言が横行していることからも明らかだろう。
 信者の神経を逆なでにすることがとくに問題となるのは、新宗教である。伝統的な宗教がいくつも存在している社会で新宗教を信仰するには、強い信仰心が必要で、ゆえに信者の結束力も強い。伝統的な宗教組織を相手に除夜の鐘がうるさいと理不尽な文句をつけても寺側が引き下がったりするが、新宗教ならそう簡単にはいかない。へたをすればオウム真理教が起こしたような事件に巻き込まれかねないのである。
 さて、今回のこの文章において何を書きたかったのかというと、ひとつには教団というものはとにかくやっかいなものということだ。かといって自分は宗教が嫌いではなく、むしろこれほど興味深いものは他にはないと思っている。イスラム過激派のようにまかり間違えば世界を大混乱に陥らせるが、つまりはそれほどの力があるものであって、人の思想と行動、さらに自他の命にまで影響を与える。ゆえに宗教を毛嫌いする人も多いけれども、たとえ宗教がなくなったとしても別の価値観が取って代わるだけであろう。そもそも何かに祈ることをまったくしないでいられるほど人生は平穏ではなく、ニーチェの予言のように人が新しい神になるほどには、いまだ人は強くもない。
 某タレントが某新宗教教団の信者であることを公表し、それに伴って事務所と一悶着を起こしていることについて、あれこれと思うことはあるが、とかく宗教団体の関わる問題については明確な犯罪でない限り表明することは難しい。あの教団における出家の概念は通常の仏教におけるそれとは異なっている、といった客観的な論評ならばもちろん可能だけれども。そしてもうひとつ個人的な感想として強く抱いたのは、親がその信者で自身も生まれたときから当たり前に接してきた宗教とする世代が生まれているという、そんな時間の推移を目の当たりにして驚いたということだ。自分の世代にとってあの教団はまさにぽっと出の新宗教だが、そうではない大人、つまりたとえ親が信者であろうとなかろうと教団に対する認識も大きく違っているであろう世代が存在しているのである。
 批判や分析ではなく個人的な歴史を最後に書いておくと、自分は宗教もオカルトも関心の分野で、あの教祖の父親が最初に出した霊言集からしばらくは興味深く目を通し、数冊は手元にもある。まだ教団となる以前、組織化を図ってやがて教団となっていく兆しが現れた辺りで読むのを止めた。社会学的な関心事としては注目すべき状況だったのだろうが、個人的には内容の上からもこれ以上は追う意味も価値もないと判断したからである。

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お炊き上げ [宗教]

 年が明けて間もない一月一日の0時30分頃、毎年、近所の神社に参拝することにしている。
 昨年の正月にここに書いたことだが、なぜか昨年はいつもより参道に並ぶ人の数が極端に少なかった。で、今年はと言えば、従来より少ないとはいえ、やや持ち直したようだ。若い女性の姿が多く思えたのは、昨今のパワースポットブームの影響が少しはあるのかもしれない。
 にしても相変わらず、境内で古い御札等を炊き上げている火中に、無料で配られる甘酒の紙コップやゴミも投げ込まれている。
 御札を祀ることをしない多くの連中にとっては、単に暖を取るための焚き火に過ぎないのである。神職の常駐していない神社ということもあって、取り仕切っている氏子の役員たちも注意をしないどころか、同様にゴミを投げ込んでいたりする。
 いつものようにどうしようかなあと古い御札をコートのポケットに入れたまま、しばらく火に当たって佇んでいた。そして、気にすることなく御札や破魔矢を火中に投じる人たちを何人か眺めた後、諦めて御札を火にくべた。
 何だか罰当たりな、嫌な気持ちをいだいて帰宅した。
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初詣の悩み [宗教]

 年が明けて一時間後くらいに、近所の神社に参拝することをここ数年来の慣わしにしている。いつもその時間には正面の鳥居から道を挟んで数十メートルの列ができ、参拝するにはかなり待たなければならなかった。
 ところが今年は、鳥居前の道路を越えての列を成しては居なかった。雨も雪も降っていない、心地よく冷たい冬の夜なのに、鳥居のすぐ前までにしか人はいなかった。全体の列の長さとしては、従来の半分弱といった参拝者の数だったのである。こんなのは初めてだ。
 不況のせいだろうか。しかし、それだからこそ僅かな額のお賽銭での神頼みが増えるとも思われるが、あるいはそんなことすらしないほどの無神論や厭世観が蔓延ってしまったのか、などと考えつつ、こちらはいつものように周りの人たちが滅多にしない型どおりの二礼二拍手一礼で参拝し、神宮大麻と神社の御札を頂いた。
 境内では古い御札や破魔矢などがお焚き上げされている。しかしそれはただの焚き火に御札等が投げ込まれているだけで、無料で配られている甘酒を飲んだ後の紙コップやその他のゴミなども、人々は勝手に火中に投げ込んでいる。これはいつもの光景だ。
 毎年、古い御札をこのときは持参しているのだが、やはりいつものように、ゴミと一緒に御札を焚き上げるのが躊躇われ、翌日に再び神社を訪れて、人の少なくなった状態の時に火中へと投じた。
 毎年、なんとか改善されないものかと頭を悩ませている。
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