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残念な進路指導 [教育]

 大学入試に関していろいろと騒がれているが、その問題とは直接的には関係ないとはいえ、自身の不愉快というか理不尽だった状況を思い起こした。そんなどうでもいい個人的な話。

 自分が卒業した高校は地方の公立校だが、教師たちにあまり良い思い出がない。というよりも、あまりにも呆れかえることがあったため、教師に頼らずに卒業後の進路を考えることにしたというほどに、悪い印象ばかりだった。
 呆れかえることとは、高校の三年間、一貫して進路指導の教師が繰り返し主張していたことに発端がある。それは「私立大学は難しくて合格できないから受験するな。国立を目指せ」というものだ。
 大学受験のことを真剣に考えていなかった高一の頃は、何も思わなかったが、やがて当然、気がつく。私立大学のレベルによるんじゃねえの?という疑問である。そしてまた、どこで何が学べるかという選択もある筈で、私立か国立かという選択のみで国立を選ばせようとすることの疑問も生じる。
 当初は学費の安い国立に進むのがいいのだろうと漠然と考え、そしてやはり中でも良い大学に行きたいとは思うのだが、あらゆる科目において好成績を取っているわけではない自分に、旧帝大に合格する可能性はほとんどなかった。しかし関心のある分野が設置された旧帝大以外の国公立を探すとなると、かなり限られてくる。あっても、自分の住んでいる地方から別の地方に移り住むことになり、それはまたなんだかぱっとしない展開だ。ではどのような選択をするのが最適かというと、私立大学にしぼることだと思った。多くの科目の成績を上げるより少ない科目を伸ばす方が、良い大学に進学できる可能性が高い。国語と社会は問題ないので、あとは英語の一科目に集中するだけでいいのである。中下位の国立より上位の私立、ということだ。
 国公立進学のクラス(当時の共通一次試験受験のためのクラス)にいたが、高三になって間もなく担任のもとへ行き私立専願にしたい旨を話すと、担任は露骨に不愉快そうな顔をし、ただひと言「進路指導の先生のところへ行け」。そこで進路指導の教師に同じように告げると、面倒くさそうにこちらの成績表をめくり、「頑張れば○○大学(地元の国立大学)には入れるから、弱気になるな」とのみ言い、それで話を終わらて帰らせようとする。こちらの話を聞くこともなく私立を目指すことを「弱気」と決めつけ、さらに大学で何を学びたいのか聞くこともなく、こちらが専攻したい分野が設置されていない地元の国立に行けというのである。このような態度に接し、ああ、これは話をしても無駄だなと思い、そのまま引き下がった。
 ただし引き下がったとはいえ、自身の意を翻したのではない。その後、担任に対しては当たり前のように共通一次は受けない旨を伝えた。担任はとくに何の反応もなかった。
 ところが秋も深まった頃、嫌がらせめいた妙な扱いを受けることになる。あるとき、共通一次対策特別補習といった授業が行われた。しかし冒頭で教師が、私立専願の生徒は別教室で自習するように、と言い、クラスから自分を含めた三名ほどが教室を追われ、他クラスからの同様の数人らと共に寒々とした別教室に隔離されてしまったのである。共通一次対策とはいっても勉強には変わりない筈で、まさかマークシートの塗り方とか鉛筆の転がし方を教えているわけでもなかろう。震えるほど寒く監視もない教室で真面目に自習する気も起こらず、なんなんだこの状況はと腐った気分になりながら時間が過ぎるのを待っていた。
 その後、想定の範囲内であった浪人生活を送り、世間的には良いところと目される私立大学に複数合格し、元担任からどの大学に行くのかと電話で聞かれたから、○○大学ですと答えてそれ以上の会話もないまま切った。

 さて、高校の進路指導の教師が私立への進学を否定し、国立へと無理矢理に勧めていた理由はやがて理解した。県内の公立高校において、国立大学の合格者数を競っていたため、であった。彼らにとって、生徒が何のためにどこに行こうとするのか、どう判断すれば生徒が望むより良い方向へと導くことができるのかなんてことは、まったく頭にはない。実際、進路のための指導など「私立には行くな」という警告の他には、こちらが私立進学の意志を表明して以降、なんにもなかった。教室を追いやられた状況に象徴されているように、国立大学に進学する意志のない生徒は、ただ、無視されるのである。
 それから数十年たった今、高校の評判をネットで探ってみた。現在でも、とにかく国立に行くようにと指導しているらしい。そして、それにもかかわらず、県内の公立高校の中で国立進学者の数は高くない。かつての入試は総合選抜で合格者は各高校に振り分けられていたのだが、その当時でも他の公立高校と比べ、難関国立大学への進学者数は低いもので、毎年、東大に一人か二人が合格するかどうかというものだった。単独選抜による入試となっている現在、ここ数年、東大への進学を果たしたものはいないらしい。かつてもそして現在も、進路指導は機能していないようである。

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痴の巨人池上彰 [教育]

 今から三年半前、平成二十七年二月に、「池上彰が日本人に教えたい、らしい」という題目でここに記事を書いた。テレビ朝日で「池上彰が今こそ日本人に教えたい 実はみんな知らない日本」というタイトルの番組が放送されると知って、なんて思い上がった恥知らずなタイトルだろうと呆れかえってのことだった。その記事では、「池上彰が伝えたいこと~」に変更されたらしいと書いたが、いま調べてみると「教えたい」と「伝えたい」の両方で同じ番組が検索に出てくる。どちらが正しいのかはもはやどうでもいいが、ネットでは圧倒的に「教えたい」で引っかかる。
 それから半年ほど経って、ようやく件の番組を観て、「池上彰が伝えたい日本って」という題目で再び記事を書いた。番組では日本の宗教や神話について間違った情報がいくつも語られており、タイトルだけでなく内容にも大いに呆れかえったのだが、このような誤情報が教育的なふりをして放送されることの批判は、まずは池上彰に向けられなければならないだろう。
 この人が一介のタレント、もしくはレポーターやキャスターとしてテレビに出ているのなら、まだ責任は軽い。ファッションモデルが着て宣伝していた服に機能上の不備が見つかったとしても、責任の大半はデザイナーなど制作側の方にある。
 しかし、いくらテレビのお約束とはいえ、あくまでも池上彰が主体となって「教え」「伝え」ているという形で、しかも大学教授を務める人間による、ジャーナリストという肩書きでの仕事であるからには、その内容の責任は池上に帰せられなければならない。
 件の番組は制作側の無知無能ぶりも甚だしいのだが、今一度もっとも呆れた場面を挙げてみる。

・ゲスト「川崎大師みたいに『大師』って付いているのは何でなんですか?」
・池上彰「はい、これは弘法大師から来てるんですけど、弘法大師って空海でしょう? 神社じゃない
でしょう? あれは神社じゃないんですよ。お寺なんですよ」
・ゲスト「えー、そうなんだー」「えー」

 台本のある会話で、そういった演出なのはわかるとしても、あまりにも稚拙である。池上は空海が弘法大師であることを前提に説明しているが、それを承知しているなら、川崎大師がお寺であることは少なくとも薄々は分かっている筈だ。この程度の知識を「日本について知らないことを今こそ私が日本人に教えたい」と得々と語る池上の姿は、まったく滑稽というしかなく、もはやなりふり構わずテレビに出て金を稼いでいるといった悪印象しかない。
 最近になってようやく池上彰の胡散臭さが表立って指摘されるようになったようだが、日本文化や宗教などは専門外であろうから、それらを語ることは構わないとしても、無知な皆さんに教えますといった形式による発言は、あまりにも恥ずかしいので止めた方がいいのではなかろうか。
 そしてまた、仕事とはいえ馬鹿のふりをするタレントの皆さんも、このような番組ではタレント個人の馬鹿が笑われるだけではなく、観ている我々が馬鹿にされているということを少しは考えて貰いたいものだ。制作側が一番の元凶だから、無理な話だろうけれども。

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体罰問題を語る虚しさ [教育]

 何かを論じたり評したりする立場の人は、だいたいにおいて知識人である。そして世に知識人と呼ばれている人の多くは、子供の頃から成績が良く、良い学校を出ている。
 本当に芯から頭がおかしいと思えるような不良に接する機会も少なく生きてきた彼らに、通常かそれ以上に品の良い教育以外のことを語るのは無理だろう。言葉や誠意や愛情だけではまったく理解し合えないような連中との接し方など、あまり知らない筈だからである。
 まったく救いようがないような犯罪者がいつの世にもいて、それらの予備軍も常に存在していることからすれば、殴っておとなしくさせるしかないような人間がいることに目を瞑ることはできない。
 あらゆる体罰を否定する者は、どうしようもない凶悪犯罪者を射殺するような行為どころか、犯罪者を拘束して罰を与えることすら否定しなければならないのではないか。純真な子供がいきなり凶悪な大人に変貌するわけではないのである。
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モンスターペアレント [教育]

 子供向けの漫画やアニメには、「仲間を信じる」というテーマがよく描かれている。たとえその仲間に責められるべき点があっても、主人公は盲目的に仲間を信じ、波乱はあっても結果的に信じたことがハッピーエンドにつながる。
 この信じるという行為は仲間に向けられるものであって、もちろん「敵」には向けられない。仲間を信じることで結束がより深まっていく美談として描かれる。
 どんな犯罪を犯そうとも、うちの子は悪くない、悪いのは他者なのだと弁護する親は、そんな物語を真に受けているような気がする。漫画やアニメの予定調和の単純な「愛」「友情」「結束」「正義」は、そのまま現実に投影させることは不可能な作り物の理念なのに、現実だと思ってしまう世代が親となっている今、社会や学校を困惑させる狂った親たちが増大しているのではないか。


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見えない悪意 [教育]

 ふて腐れた態度を晒した女タレントや糞生意気な言動と反則行為で問題になっているボクサーについて、まだ子供なんだからあまり文句を言うなといった意見をたまに耳にするが、これはまったくの間違い。
 子供だからこそ何が良くて何が悪いのかをはっきりと教えてやれ。でなければ勘違いしたまま増長した大人になってしまい、こうなってはなかなか修正が利かなくなる。そもそも社会に出て働いているのだから、社会のルールは教えるべきだろう。
 まあ周囲の大人が子供をうまく指導することができなかった結果だ。軽薄なマスコミどもに批判されることよりも、より身近な大人による教育が必要だが、ああいう世界では狡猾な知恵を教えてその場をしのごうとする間違った教育がなされるのだろうな。反則ボクサーの親父はあからさまにそう見える。
 たとえ煙たがられ嫌われようが子供におもねることなく指導ができる大人が、一般社会にも教育界にも少なくなっている。優しく物分かりの良い社会は厳しい指導の必要でない優秀な人間にとっては心地よいが、そうでない人間には反省や成長の機会をもたらさない、いわば悪意に満ちた社会に等しい。


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他人の生きる道 [教育]

 かつて紳助は相方の竜介の死に際して、自分が漫才の道に誘ったことが竜介の人生を狂わせたんじゃないか、と嘆いていた。
 通常の精神状態でないことはわかるが、人を慮るようでいて、あまりにも傲慢な考え方だと思う。それでは竜介が自分の人生を歩んでいない愚か者だと、高みから断罪しているようなものだ。
 ある大学教授は大学院を受験しにきた優秀な人物を、君はこんな大学に来るべきではないといって、合格点だったにもかかわらず、落とした。
 どんな道を進もうと、それはその人の人生だ。人はどんな人生を送ろうとも、自分の人生を歩んでいる。いくら優れた芸人であろうと研究者であろうと、人として間違った道でない限りは、他人の歩む人生を否定したり阻害してはならない。まったく何様のつもりかと思う。
 うまくいかなかった人生が、必ずしも間違った選択の結果だとはいえない。間違いだったか正しかったかなんて神様にしかわからないのだ。


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教育と自殺 [教育]

 世の中は善人ばかりではない。そして、それは教育の結果だとは断定できない。完全無欠な教育ができたとして悪人が育たないとは限らないし、そもそも他の分野と同様に完全なる教育なぞ存在しない。
 であるならば、苛められる側の人間が安易に自殺しないようにする努力がまず必要となってくる。人は皆があらゆる点で平等に生まれているわけではなく、障害や苦悩は人生につきもので、それを克服して生きていくのが当たり前に人間に課せられた宿命なのだと教えるべきだろう。
 弱者に手を差し伸べることは大事だが、だからといって自分の苦悩を誰かが救ってくれるとは限らない。むしろ自分が戦わなければ何も変わらないことの方が多い。そしてまた、直面している苦悩の多くは、長い目で見れば一時的なものに過ぎないことも。
 さらに言えば、死んだところで苦しみから逃げることはできないのかもしれないということも重要だ。死ねばこの苦しんでいる精神も消滅するとは、誰にも断言できない。更なる苦しみが待ち受けているかもしれないのである。


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教育者の自殺 [教育]

 死者を批判するのは気が引けるが、命の尊さを教える立場の人間が自殺しちゃ駄目だ。子供たちの前に立つべき教育者がそんな範を示してどうするんだ。せめて教育者としての肩書きを外してからにしろ。
 もちろん自殺を選択するような精神状態の人間にそんな当たり前の理屈は通じないし、教育の自覚を持っていない教育者や教育学者が多いのも身に沁みて分かっている。いろんな意味で哀しい話だ。


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必修科目不履修問題 [教育]

 以前にも書いたが、高校生の頃、日本より世界のことを知ることが大事だと青臭く考えてしまって、結局、日本史を一度も履修しなかった。
 大学では西洋哲学を勉強したが、隔靴掻痒というか、なんともピンと来ない。やがてそれは西洋人でもクリスチャンでもない自分が肝心の自分自身、足元の世界を知らなくて余所様の世界を知ろうとしている愚だと気づき、日本人でありながらよく自覚されていない日本と日本人の文化や思想について知りたいと思った。
 それで大学院に入ってそういう方面の研究をしたのだが、院受験に際しても後の研究に際しても、日本史に関する知識が少ないことに、大いに苦労した。何せ初めの頃は、平安と奈良はどっちが古いのか考えなければ分からないという低レベルだ。いまだに苦労している。
 人生、どう動くかわからない。可能性を狭めるような教育は教育ではない。高校までは強制的にいろんな分野を学ばせるべきだとさえ思う。幼いうちから得意分野ばかり伸ばすような偏った教育もするべきではないと思っている。


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教育と二極化 [教育]

 どんな教育改革を施そうとも日教組が存在する限り期待はできないのだが、それ以外に、目に見えない大きな障害が教育問題には立ちはだかっている。
 それは現代の倫理観、現代社会的風潮としか言えないもので、それによって人々の二極化はますます進んでいる。自覚のある者のみ成長の道を進んでいき、そうでない者は捨てられたも同然となっているのである。これは強者による弱者の切り捨てということではない。成長のためには時として必要な厳しさを遂行できない、現代社会的風潮によってがんじがらめにされた教育現場や家庭や社会が生み出しているのだ。
 ゆとり教育とやらに流された人たちとそうでない人たちの二極化もあって、日本の社会はさらに分断されていく。それが結果的に良いことなのか悪いことなのか、なんとも判断のしようはないけれども。


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