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不要な不要論 [国語]

 ツイッター発信の漢文不要論とやらが話題になった。まず思うのは、子供ならいざ知らず、いい年をした大人が近視眼的に「不要」を語ることの愚かしさである。なんとか不要論というものの大半は、それを唱えている人の限られた知識と価値観を根拠としており、本当に不要かそれとも必要か、ツイッターの限られた文字数の中では議論どころか、問題提起することすら言葉足らずで意味はないと感じた。
 学問や文化伝統の類は複雑に諸要素が絡み合っており、学者ですらその全体像や諸要素の繋がりを把握するのは難しい。容易に生半可な知識や感覚だけで、必要不必要や、役に立つ立たないの判断が下せるものではなかろう。
 件の発信者は、日本式の漢文の読み方ではなく中国語で教えて欲しかったとも言っているが、まったく筋違いで、中国語なら外国語の習得であり、中高の古文の授業で習える代物ではない。漢文の読み方というのは、そんなに手間暇かけなくとも簡単に理解するためのテクニックに過ぎないものであって、もちろんそれは、その技術を習得する必要性があるから培われてきたもので、そして今でも必要だからこそ存在している。
 漢文を簡単に読む技術など要らないというなら、それは単に、戦前までの長い期間において日本人が書き継いできた言葉の歴史や価値を知らない、といった無知無教養ゆえということになる。歴史や文化の土台は言葉であり、その言葉はたとえ時代とともに変化しても、大和言葉に漢語、そして片仮名言葉まで絡み合って現在の日本語が形成されている。今の自分に見えていない、必要としていないからといって蔑ろにするのは、見えない生態系の繋がりを無自覚に断ち切って自然環境を破壊する愚行と同じである。

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