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身勝手と火事場泥棒 [社会]

 新型ウイルスの流行による緊急事態の中、自身の生活環境は殆ど変わっていないのに、やはり精神的な問題か、普段と違って何も手につかず呆けた日々を過ごしていた。この自分のためだけのブログも更新が止まって広告が出るようになったので、その解消のために少しまとめて書いておく。
 厄禍の当初から現在に至るまで、こういう普段と異なる状況になると人の本性があからさまとなり、愚昧さや傲慢さや狡猾さが明らかとなるのだなという印象を抱き続けている。自分の場合はすっかりやる気を失って、本性の怠惰に支配されているというわけだ。
 最初に、ああこの人はこんなにも愚かな人だったのか、と驚いたのは野田秀樹だ。公演自粛に対して異議申し立てを表明したわけだが、単に自分のやりたいことを続けたいと駄々を捏ねているだけであり、説得力がまったくない。この意見書の中には解りづらい文脈で《「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧します》という言葉も見えるが、この表明そのものが「身勝手」に他ならないもので、「感染症の専門家と協議」して対策を十全に施すともいうが、その専門家たちを必要としているのは「芸術家」ばかりではないのである。意見書を報じる毎日新聞の記事中に見える「現状に一石」や、平田オリザなど「野田さんの意見書に賛同する声が広がっている」という言葉から、毎日新聞は野田の意見を肯定的に捉えているらしい。しかし自粛が要請されている他の様々な分野に比して、演劇活動だけが特別扱いされるべき理由はまったく見出せない。
 次に鬱陶しく目立っているのが舛添要一。たとえば首相が緊急事態宣言の発令を検討している段階で、ヒトラーを引き合いにして「乱用は禁物」だと釘を刺すような発言をしている。乱用は禁物だということそのものは間違っていない。しかしそれはあくまでも乱用された時点での問題であり、野党党首に協力を仰いだ上での検討という慎重な姿勢を見せている中でのこの発言は、何様のつもりかと思わせる。都知事時代の諸疑惑に口を閉ざし、もう辞めたから説明する必要はない、とまで言い放って説明責任を放棄した人物だからこそ、国際政治学者とはいえ、まったく何様かという思いを抑えられないのである。
 他にも知性を売りにしている芸能人らによる、未知数の厄禍の現状における火事場泥棒めいた政権批判も見苦しい。最近の間抜けな発言をひとつだけ挙げるなら、会見で原稿を読む首相について松尾貴史が、「学校なら『カンニング』と呼ばれます」と批判している。学校でもなければ試験中でもないことは言うまでもなく、また外国の要人は演説の時くらいしか原稿を見ないことを批判の根拠としているが、なぜ「外国の要人」のスタイルと異なればカンニングだと言われなければならないのか不明。逆に、間違いのないよう原稿を確認する首相の姿勢の方が適切ともいえるだろうに、外国のスタイルが正しく、異なる日本は間違い、という貧相な発想を恥ずかしげもなく披露してしまうのは、やはり「批判のための批判」でしかないからといえよう。
 発言の数だけを見れば、ラサール石井や蓮舫とかの間抜けな発言が目立っているが、それゆえに、もはやあれこれと引っぱり出してくるのも鬱陶しいので、やめておく。

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