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元A級戦犯と戦争賛美 [宗教]

 靖国神社に十数人のいわゆるA級戦犯が祀られていることを問題視し、公人が参拝することするを批判する人は、その他の246万人の祭神のことをどうして無視するのだろう。この点だけでも批判者たちの観点がいびつに偏っていることがわかるというものだ。
 総理大臣による参拝が、246万柱のうちの14柱の生前の行為を賛美しているのだと見なして批判するというのは、いくらなんでも強引ないちゃもんと言わざるを得ない。ヤクザに理不尽に因縁をつけられることと何ら変わりない。
 靖国神社に元戦犯が祀られているということ自体についても、その元戦犯たちは昭和28年に国会において全会一致で事実上の名誉回復がなされているゆえに、少なくとも国内的には問題はない筈なのである。
 元国立大学の心理学の教授で、現在は拝み屋宮司をしている人のブログに次のような文章があった。すなわち、昭和天皇でさえA級戦犯とされた人々が靖国神社に合祀されたことに不快感を覚え、1975年以降は親拝が取りやめられている、そして今上天皇も即位してから一度も親拝を行っていない、云々。
 昭和天皇の不快感云々というのは、富田メモによるものだろう。しかしあのメモの信憑性については疑問が多いことが指摘されている。また昭和50年(1975)には三木総理による参拝をきっかけに天皇陛下の御参拝を社会党が問題視しており、それ以降に御参拝がなかったことは必ずしも元A級戦犯合祀と関係があるとはいえない。
 また今上天皇が参拝されていないのも、中韓による一方的な問題視からすれば当然で、あえて御参拝に踏み切る筈もない。上記のA級戦犯との関連を思わせるような記述は独断としか言いようがない。
 拝み屋とはいえ宮司を称するのなら、こういう問題についてももう少し勉強し考えて書いて貰いたいものだ。
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ネットカルト3 [宗教]

 このブログで何度かカルトという言葉を使っているが、本来この言葉はあまり使わない方がいい。少なくとも日本の教団に対しては注意を要する。
 オウム事件以降、まっとうでない宗教団体に批判的な意味を込めてカルトと評することが多くなったけれども、某著名な故宗教学者は、日本の教団にはこの言葉を用いることを避けていた。なぜならこれは学術用語として固まっておらず、もともと欧米では保守的なキリスト教徒が他の宗教を侮蔑してこう呼んでいたという、手垢のついた言葉だからである。
 ともあれ、そのことを踏まえた上で、便宜上カルトという言葉を使っていることはとりあえず明記しておく。

 下に書いた、ネット上で祝詞を呪文と表現しているある人物が、饒速日命は神ではなく朝鮮半島からやってきた武人だから神界にはいない、という。こちらはそんなことを知り得る能力を有していないので、まあ肯定も否定もしない。
 だが、その半島に由来する武器を継承した物部氏が神事を独占したとき、「捏造された祝詞も多い」のだと書かれては、ああやっぱり変だなと思う。祝詞は神への感謝とか報告とか祈願を寄せるものだから、もともと、人が作るものなのだ。
 神から授けられた意味不明の「呪文」の類を問題としているのなら、実は神由来ではなく人が捏造したのだとかいった言い回しにはなるだろう。しかし人が作るべき祝詞を呪文と呼び捏造云々と表現しては、やっぱりこの人はよくわかっていないのだなと判断せざるを得ない。
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ネットカルト2 [宗教]

 神社で神職が唱える祝詞を「呪文」だと表現する人は、神道のことをよく知らないか、国語表現能力に少し問題がある人だと見なしていい。不得手な人にとって古文が意味不明の呪文に見えるように、祝詞の古めかしい表現も呪文のように聞こえるかもしれないが、神道の世界をある程度知っていればこんな表現は用いないだろう。
 祝詞を呪文と表現するある人物が、呪文にはそれを使用し続けている家系の霊的な垢がこびりついているから、唱えることは霊的に良くないのだと主張する。ただし、大祓詞は倭姫命が天照大神から授かった特別な祝詞なので、大丈夫だという。
 神道のことをある程度知っている人間ならば、大祓詞は別名を中臣祓詞ともいい、中臣氏が唱えるものだったことを知っている。御祈祷において神職は、大まかな型は維持しつつも、依頼者の事情に合わせて自由に祝詞を作文する。これと違って大祓詞は、奏上体と宣下体の違いや表現の改変はあるにせよ、神職が作文することはできない決まった形のものである。「霊的な垢」がこびりつくという主張ならむしろ大祓詞にこそふさわしいだろう。
 倭姫命と大祓詞の関係については、これはもうその人が霊的にそのように感得したと主張するのなら、同じ土場に立てない以上、否定も肯定もしない。が、あまり手を広げすぎて、後から矛盾を繕う説明を加えないと疑問点だらけというのでは、ついていくのはよほどの盲信の者だけだ。
 念波観音力という言葉を某掲示板に書き込み、念「彼」観音力の間違いではないかと指摘された後、実は「念波」とするのが正しいと主張した時点で、それを見ていた多くの者は苦笑していたと思うけれど。
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平と平吉 [宗教]

 運気というのは面白いもので、駄目なときには本当にいろんなものが次々と駄目になる。自分の努力だけでは覆すことができないようなことが信じられないくらいに続けざまに起こったりするから、経験的に、占いの類を頭から馬鹿にすることはできなくなってしまう。
 人間関係が次から次へと破綻し、仕事もぷっつりと途切れ、何だこれはと一人呆然としているとき戯れに占ってみたら、いわゆる大殺界、天中殺といった時期に入っていた。
 この天中殺を中心とした数年間、神社のお神籤で良いものはまったく引かなくなった。正月と夏越大祓、および旅行等でとくに参拝した場合に神社でお神籤を引いてみるのだが、現在の閉塞状況になる以前は珍しくもなく大吉を引いていた。それがまったくなくなってしまったのだ。
 先日、六月の末に埼玉大宮の氷川神社に詣でた。お神籤の結果は「平吉」。ここのお神籤には平というものが出る。去年か一昨年には平が出た。平と平吉とでは平吉の方がましだろうと思えるが、それはよくわからない。いずれにしてもあまり良い結果ではない。
 そんなお神籤を引いた後、神職たちが境内で大祓の祭儀を行っているのを眺め、諸々の禍事罪穢およびこれからやって来るかもしれぬ不運不幸や災いを退けることができますようにと、やや諦め気味でぼんやりと祈った。
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阿修羅展 [宗教]

 先週の金曜日の朝、寝床でぼんやりとテレビを聞いていて、阿修羅展があと二日で終わると知る。早速その日の午後、東京国立博物館に行った。雨にもかかわらず人手は多く、入場するまで一時間くらいはかかった。
 さてメインの阿修羅像、小ホール中央の台にライトを受けて立っている様は、さながらアイドルスターである。かぶりつきの観客たちは職員による再三の注意にもかかわらず、じっと立ち止まったまま見入っている。おかげで気が削がれ、じっくりと拝観できなかったことは残念だ。
 ただ、阿修羅像の左斜めから見上げた、その愁いを帯びた表情と真っ直ぐの視線、そして合掌した腕の様子は、なんとも美しく感じ入った。
 欲を言えば、この阿修羅像に限らず仏像の類は美術品としてではなく、信仰の対象として魂の入った像を拝みたいものだ。
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ネットカルト [宗教]

 ネット上の精神世界系の分野で話題になっている(とはいっても知らない人も多いだろう)某IHD、およびそれに批判的な某元国立大学教授の拝屋系神職、そしてその某元国立大学教授にちょっかいを出して敵対しているという某大学人。
 この三者については、その活動の初期からネットでそれぞれ興味深く観察していた。トランスパーソナル系のサイトや某巨大掲示板のオカルト版をよく見ていたことから偶然に見出したに過ぎない。
 この三者が、最近、上記の関係でもって結びついている。なんだかわくわくする、といえば不謹慎だが、興味深いといえば単純に興味深い。そういえば幸福の科学が発展する前の、最初期の霊言集もいくつか興味深く見ていた。五冊目くらいでうんざりして買うのを止めたが。
 それぞれに思うことはあるけれども、今はまだ観察を続けよう。最近、某元国立大学教授は某IHDについて無視を決め込んだらしいが、神道文化シンパの自分にとっては、某IHDについて思うことはたくさんある。いずれ気が向いたら書いてみよう。
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怒る僧侶 [宗教]

 平城遷都1300年祭のマスコットキャラクターについて、仏のような童子の頭に鹿の角が生えているといった姿を、仏に対する侮蔑だと僧侶たちが文句を言っているという。
 そういう怒りを抱くという精神はまったく仏教の理念から離れていると思うのだが。悟りというものが何だかはわからないけれども、こんなことに怒るのは、仏教の目的である悟りの境地と対極にあることのように思える。
 一部の僧侶による意見だと思いたいが、チベットの現状と比較して、同じ怒りでも何だかなあという戸惑いは拭えない。
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廃仏毀釈 [宗教]

 先日、NHKのドキュメンタリー番組で、「明治政府の発した廃仏毀釈」により仏像類が打ち壊された、などと言っていた。
 こういう嘘を平気で流すというのは、日本人が日本の歴史や文化をいかに理解していないか、あるいは日本人でない人間がいかに公的機関に入り込んでいるかを示している。
 明治政府が発したのは神仏分離であって、廃仏毀釈ではない。
 神と仏を分けるのが目的であって、仏像を破壊することを指示したのではなかった。それまで僧侶の下に置かれていた神官の一部が、調子に乗って過激な行動に出たことは確かにあったが、それは政府の指示ではないのである。
 逆に神官が僧侶から襲撃されることもあったけれども、そんなことは教科書には載らず、一方的に政府と神社側が仏教を排撃したかのように理解されている。
 個人的には明治政府の宗教政策を評価することはできず、あの時代に神道は死んでしまってスカスカになってしまったとさえ思っているが、廃仏毀釈が政策として行われたと思い込んでしまうほど近代以降の日本は狂っていたとの偏見が一般化している、とは言えるのかも知れない。
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鳥居を潜るなと [宗教]

 以前、どこかで誰かが、「喪中の間は鳥居を潜ってはならないというので、柱の外側を通って鳥居を潜らずに神社に参拝しました」と書いていた。
 もちろんこの「鳥居を潜らない」というのは、神社に参拝してはならないということを意味しているのだから、潜らないで境内に入れば参拝して良いのだということではない。まあ、笑い話として聞くことはできる。
 学生の頃、知人が大晦日の明治神宮の様子を観たいというので、同行した。その知人は何故か鳥居の柱の外側をわざわざ通って境内へと進んでいった。変なことをする奴だなあと不思議に思ったのだが、後、そいつは創価学会員だということがわかり、やがて学会員は鳥居を潜ることを禁じられているのだと知った。
 たぶん、創価学会で「鳥居を潜るな」というのも、神社参拝をしてはならないということを意味していたのだと思う。それを文字通り解釈した鳥居の下を避ける行為も笑い話だが、なんだか哀しいくらいに滑稽だ。


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政教分離 [宗教]

 調布市の市政五十周年記念のイベントとして、五十一本のクリスマスツリーが飾され、市長の挨拶などがなされたという。市が企画を公募し、結果、この案が採用されたということらしい。
 もちろんクリスマスはクリスチャンにとって救世主とされるイエスを讃える行事であり、そのツリーは北欧の伝統的な聖樹信仰に由来する。政教分離という言葉が頭を過ぎるが、こんなことに目くじらを立てるほど馬鹿ではないつもりだ。
 しかし、どうしても連想されることで沸き起こる腹立たしさというものがある。それは、これが日本の民族宗教であるところの神道に関わる行事と公務員との接触だったなら、間違いなく特定の市民団体や運動家や宗教家が政教分離に反するとして大きく騒ぎ立てただろうということだ。
 戦後、GHQの出した神道指令という極端な政教分離政策以来、神道に対する差別は今なお消えることはない。こういう宗教差別が現存し、総理大臣の信教の自由が阻害されるといった反近代的状況に対して、マスコミや進歩的知識人といった連中は無視を決め込むばかりである。


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