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ネットカルト2 [宗教]

 神社で神職が唱える祝詞を「呪文」だと表現する人は、神道のことをよく知らないか、国語表現能力に少し問題がある人だと見なしていい。不得手な人にとって古文が意味不明の呪文に見えるように、祝詞の古めかしい表現も呪文のように聞こえるかもしれないが、神道の世界をある程度知っていればこんな表現は用いないだろう。
 祝詞を呪文と表現するある人物が、呪文にはそれを使用し続けている家系の霊的な垢がこびりついているから、唱えることは霊的に良くないのだと主張する。ただし、大祓詞は倭姫命が天照大神から授かった特別な祝詞なので、大丈夫だという。
 神道のことをある程度知っている人間ならば、大祓詞は別名を中臣祓詞ともいい、中臣氏が唱えるものだったことを知っている。御祈祷において神職は、大まかな型は維持しつつも、依頼者の事情に合わせて自由に祝詞を作文する。これと違って大祓詞は、奏上体と宣下体の違いや表現の改変はあるにせよ、神職が作文することはできない決まった形のものである。「霊的な垢」がこびりつくという主張ならむしろ大祓詞にこそふさわしいだろう。
 倭姫命と大祓詞の関係については、これはもうその人が霊的にそのように感得したと主張するのなら、同じ土場に立てない以上、否定も肯定もしない。が、あまり手を広げすぎて、後から矛盾を繕う説明を加えないと疑問点だらけというのでは、ついていくのはよほどの盲信の者だけだ。
 念波観音力という言葉を某掲示板に書き込み、念「彼」観音力の間違いではないかと指摘された後、実は「念波」とするのが正しいと主張した時点で、それを見ていた多くの者は苦笑していたと思うけれど。
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