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新宗教と信仰 [宗教]

 いつもと同じでまとまった論考ではないことを、あらかじめお断りしておく。
 オウム真理教による犯罪行為が問題となったとき、なぜ宗教学者は教団の危険性を察知できなかったのか、との批判を幾度か目にした。しかしこのような批判は的外れで、それは警察や公安の仕事だ。宗教学者はたとえ教団の教義に危険性や反社会性などを認めたとしても、世間に警鐘を鳴らして公然と批判することはない。
 もちろん明確に犯罪が行われていることを知れば司直の手に委ねる行動は取るだろうが、宗教の教義や修行というものは基本的に世俗の常識から外れているものだから、外れているからといって批判の対象とはならないし、できないのだ。神仏の存在や神仏による救いなど、通常の世俗の感覚から外れているからこそ宗教の価値があるといってもいいくらいだからである。過酷な行として知られる千日回峰行について、他者が寺院や修行者に対して非常識で危険な行為だと非難したり無理に止めようとすることは、宗教学者でなくとも憚れることだろう。まともな研究者ならば、宗教に対して一方的な価値判断を下すようなまねはしないものだ。
 しかも信教の自由という観点から、信者の神経を逆なでにすることもしづらいのである。学者でなくとも公然とは批判しにくいのが宗教の持っているやっかいなところで、思想信条の自由は公然と蔑ろにされることがあることに比べ、信仰の場合はその信者による組織の結束力による違いか、批判に対する反動の大きさゆえか、まさに触らぬ神に祟りなしといった扱いとなっている。思想信条の自由が蔑ろにされるという点については、たとえば特定の政治家や政治思想の支持者に対する犯罪めいた誹謗中傷や罵詈雑言が横行していることからも明らかだろう。
 信者の神経を逆なでにすることがとくに問題となるのは、新宗教である。伝統的な宗教がいくつも存在している社会で新宗教を信仰するには、強い信仰心が必要で、ゆえに信者の結束力も強い。伝統的な宗教組織を相手に除夜の鐘がうるさいと理不尽な文句をつけても寺側が引き下がったりするが、新宗教ならそう簡単にはいかない。へたをすればオウム真理教が起こしたような事件に巻き込まれかねないのである。
 さて、今回のこの文章において何を書きたかったのかというと、ひとつには教団というものはとにかくやっかいなものということだ。かといって自分は宗教が嫌いではなく、むしろこれほど興味深いものは他にはないと思っている。イスラム過激派のようにまかり間違えば世界を大混乱に陥らせるが、つまりはそれほどの力があるものであって、人の思想と行動、さらに自他の命にまで影響を与える。ゆえに宗教を毛嫌いする人も多いけれども、たとえ宗教がなくなったとしても別の価値観が取って代わるだけであろう。そもそも何かに祈ることをまったくしないでいられるほど人生は平穏ではなく、ニーチェの予言のように人が新しい神になるほどには、いまだ人は強くもない。
 某タレントが某新宗教教団の信者であることを公表し、それに伴って事務所と一悶着を起こしていることについて、あれこれと思うことはあるが、とかく宗教団体の関わる問題については明確な犯罪でない限り表明することは難しい。あの教団における出家の概念は通常の仏教におけるそれとは異なっている、といった客観的な論評ならばもちろん可能だけれども。そしてもうひとつ個人的な感想として強く抱いたのは、親がその信者で自身も生まれたときから当たり前に接してきた宗教とする世代が生まれているという、そんな時間の推移を目の当たりにして驚いたということだ。自分の世代にとってあの教団はまさにぽっと出の新宗教だが、そうではない大人、つまりたとえ親が信者であろうとなかろうと教団に対する認識も大きく違っているであろう世代が存在しているのである。
 批判や分析ではなく個人的な歴史を最後に書いておくと、自分は宗教もオカルトも関心の分野で、あの教祖の父親が最初に出した霊言集からしばらくは興味深く目を通し、数冊は手元にもある。まだ教団となる以前、組織化を図ってやがて教団となっていく兆しが現れた辺りで読むのを止めた。社会学的な関心事としては注目すべき状況だったのだろうが、個人的には内容の上からもこれ以上は追う意味も価値もないと判断したからである。

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