SSブログ

自由と緩慢な自殺 [社会]

 うろ覚えの話だが、路上で泥酔した男が「俺は自由だ」と口走っている様を見て、だから私は自由が嫌いなんだと柳田国男は呟いたという。
 自由を含めた人の持つべき権利は、時代とともに拡張している。かつて一部の特権階級のみ有していた権利はやがて女性や一般庶民にも認められるようになり、さらに生存権は今や人だけでなく動植物や自然環境にもあるのだとも見なされたりする。
 このような傾向は、単純に良いことのように考えられがちである。しかし一方で、自由の獲得とともに失われていくものも多い。例えば婚姻というものはかつて、家の存続という目的が主眼だった。その点からは家に縛られにくい現代の恋愛の自由は多くの場合、喜ばしいものと見なされよう。だが家の存続という意識は、先祖から受け継いだ家を子孫へとつなぐという世代を超えた「つながり」の意識であり、それは文化や伝統の継承という意識に他ならない。この限りにおいて、家ではなく個人的な恋愛感情を優先させることは偏狭なエゴイズムとなる。
 環境問題を考える際に、今現在の我々のエゴイズムを優先させるのではなく、子孫のために豊かな生存環境を残すよう考えるべきだと主張されるように、世代間のつながりの意識は少なからず自由に内包される弊害に反省を促しているともいえるだろう。
 家の存続という意識の低下は、継承する主体としての子孫の存在を希薄化させ、つまりは子供を残す意識を低下させていく。それは民族とその文化の緩慢な自殺に等しい。
 もちろん家や子孫の断絶は単なるエゴの結果ばかりではなく、外因や運命としか言いようのないようなものも絡んでくる。しかし個人的な問題としては、同性愛者でも性的不能でもないのに家を途絶えさせることになる可能性が著しく高い私は、この点における生産性の無さを指弾されても甘んじるしかなく、こういう生産性の低い人間は一人でも少ない方が良いと思っている。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

綺羅星回想太宰治 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。