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原武史の言説 [皇室]

 神の実在を信じるとか、その神に願いを訴えかけたり感謝を捧げるといったことはもちろん、あくまでも信仰の問題で、極端に反社会的な思想や行為でない限りはたとえ科学的合理的な精神に反していようと、他人から批判される筋合いはない。
 にもかかわらず、出血は神の嫌がることだとする考え方に対しては、なぜか性差別の問題や科学的合理的な見地から「そんな迷信に従うべきではない」といった論調が起こったりする。
 信仰の異なる者の間で見解がぶつかることはある。一方が自分たちの理屈に基づいてもう一方の見解を否定するような独善的な態度は、原理主義的傾向の強い集団に限らず今でもよく見られることのようだ。例えば清めの塩について、ある神道研究者がカトリックの指導的立場の人物に理由を説明したところ、「それはいけませんね」と否定的反応が返ってきたという。また浄土真宗で清めの塩を迷信だと否定することはよく知られているが、それを「迷信」と説明すること自体が他の世界観や信仰への断罪を意味している。
 イエスは神の一人子で救世主であるとか、念仏を唱えれば救われるといったことは、それを信じている者にとっては迷信ではないことと同じように、清めの塩も赤不浄も、そういった世界観の中に生きている人間にとっては迷信ではない筈である。
 ただ、より問題なのは最初に提示したように、信仰上の見解の相違ではなく、科学的合理的な見解もしくは何かしらの思惑から特定の考えを迷信として葬ろうとする論調であろう。
 最近では日本政治思想史の原武史氏が、「『血の穢れ』の問題」が皇室にあり、「そこにメスを入れようとしない限り、女性天皇や女系天皇に関する議論は足元がおぼつかないままだ」(NEWSポストセブン)と言っている。メスを入れるという表現から、赤不浄の考えを撤廃すべきと考えているのは明らかだが、この禁忌の存在によって「絶対的な『男女の差異』を認めてしまっている」と説明していることからも、信仰や伝統の問題には目もくれず、ただ男女平等という近代的価値観によって皇室祭祀や皇位継承の問題を考えようとしていることがわかる。
 性差別はよくない、といえば今や誰でも賛成することだろう。しかし根底にあるのはそのような差別なのではない。そもそも出血を穢れとするのは、それが死への過程であり、死を連想させるからである。血そのものが穢らわしいわけでもなければ、月経のある女性が穢らわしいわけでもない。また神社を参拝する際には手水舎で手と口を浄めるのが慣わしだが、「祓い浄めを求めるのは参拝者を穢れた存在とする差別だ。手水舎を撤廃せよ」と主張する者がいるなら、神社側としては、どうぞお引き取り下さいと言うしかないだろう。
 この原という研究者は、明治時代末の宮中に仕えた山川三千子の『女官』(講談社学術文庫、2016年)に、「宮中の『闇』をあぶり出す」という題目の解説を載せている。これは本書を読んでみればわかることだが、こんな強烈な表現が用いられるような陰鬱な話の本ではない。今から百年ほど昔の明治大正期の特殊な世界ゆえに、多少は窮屈に縛り付けられている物悲しさはあるが、現代の民間でも、学校や会社など人が集まるところではどこにでも見られるような人間関係の問題が浮かび上がるだけで、むしろ明治天皇の人間らしい言動が知られる、そういう意味で興味深い本である。
 闇をあぶり出すという表現ひとつを取っても、この研究者が皇室に対していかにバイアスのかかった見方をしているのかがよくわかる。

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