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マナーの根拠 [雑感]

 少し前に、緑茶をお祝いの返しにしてはいけないとマナー講師が説明したことに対し、反撥の声が挙がって小さな話題となった。マナー講師と呼ばれる人たちによる適当で一方的な解説については、以前にもここに書いたことがある。
 それは神社で手水を使うとき、最初に左手に水をそそぐという行為について、その理由を「神道では左手は穢れているという考えがあるから」とする解説についてだった。
 神道、と一口に言っても、何を指しているのかは人それぞれである。これは神道を語るときのやっかいな点のひとつなのだが、紀紀などの古典に則した考えか、吉田神道や度会神道などの流派で主張される思想か、宣長や篤胤などの国学者の見解か、それとも民俗神道かなど、依拠するものによって見解は変わったりする。場合によっては大本教など近代の教団や宗教家たちの思想が「神道」の考え方だと説明されたりすることもある。
 左手が穢れているという考えは、少なくとも神道の古典に則した考えではない。どんな個人か組織が主張していたのかは詳らかにできないが、もっともオーソドックスな神道思想に左手を穢れとする思想はないと言っていい。合理的あるいは常識的に見れば、世の中には右利きの人が多いから、右手に持った柄杓でまずは左手を洗う、というだけのことだろう。
 あるいは古典に則するなら、むしろ左手は尊い側と言える。『日本書紀』の一書によれば、伊奘諾尊が左手に白銅鏡を持ったときに大日靈(正しくは下の巫が女となる字)尊が生まれ、右手に持ったときに月弓尊が生まれたという。大日靈尊は天照大神のことだから、どちらかと言えば右手より左手が尊いことになるわけだ。また別の一書でも伊奘諾尊が左眼を洗ったときに天照大神が、そして右眼を洗ったときに月読尊が生まれたともあって、左右のうちの左側が上位と知られる。もし手水の順序に理屈を付けるとするなら、左手が尊いゆえに左手を先に清める、となるだろう。
 マナーというものは一種の型であり、決まった型で一貫させるところに生まれる美ゆえにマナーは重要だと考える。しかし型としてのマナーの背景は一様ではないことが多く、何を根拠にしているのかという説明がいい加減では、せっかくの美が台無しとなる。確実でないことには口を慎むのが良きマナーといえるのではなかろうか。

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