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終わりの始まり [報道]

 元からおかしかったとは言え、ここのところはその異常性があからさまになっていることが、マスコミがマスゴミと呼ばれる所以だろう。
 異常性があからさまになっているのは、マスコミの意向が反映されないネットの情報と対比できるからだが、もちろんネットのない時代においてもマスコミの偏向ぶりは指摘されている。
 たとえば紀元節論争にまつわる報道の問題があった。
 神武天皇が即位した日とされる2月11日はかつて紀元節と呼ばれ、戦後にGHQによって廃止されていたものを、やがて復活を希望する声が高まっていたときのことである。葦津珍彦の『神武天皇紀元論』(昭和33年)によれば、明治神宮外苑に八千人余りの大衆が集って賛成の決議をしたが、多くの報道機関が来ていたにも関わらず、その決議文は報道されなかった。しかし三十人余りの歴史学者が反対の集会で発した決議文は、ほとんどが全文を報道したという。
 葦津はこれを「少数派の権威を礼讃する心理と、大衆を蔑視する心理とが、極端に露呈してゐる」と指摘している。専門家でない者の意見より専門家の意見を重視するというのは、必ずしも間違いではないとは思うが、より現在のマスコミ批判に通じるのは次の指摘である。上記のようなマスコミの報道姿勢は、マスコミの人間が「それを民主主義を守るために必要なのだと信じてゐるらしい」からというものだ。
 偏向報道することが民主主義を守るという矛盾は、現在においていくつも目にしている。自分たちの意に添った事柄は報道し、そうでないものは報道しないというだけでなく、意に添ったときには民意を称え、そうでないときには多数決を疑えと論評したりする。つまりはご都合主義である。ただしこの場合、ご都合主義とはいってもマスコミ側に明確な何らかの立場がないわけではない。確かに存在している。しかしそれは決して客観的に見て在るべき民主主義ではないことは、報道の姿勢からして明らかであろう。
 偏向報道してまでも安倍内閣を倒すことが自分たちの信じる民主主義のため、と思い込んでいるのであり、おそらくそういったテロリストにも似た頭の凝り固まった連中と、特に明記することは控えるが日本を統制下に置きたい一派との結託が、現今のマスコミと野党の異様で醜悪な振る舞いを引き起こしている。
 今のところ安倍内閣の支持率がたいして下がっていないところを見ると、多くの人がマスコミと野党の異常性を認識しているのだろう。ひょっとしたら今回の騒動をきっかけに、偏向した勢力の瓦解が始まるのかもしれないと期待するのは、少し楽観的すぎるだろうか。

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