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姓名と名姓 [社会]

 日本人の名前をローマ字で表記する際、姓・名の順にするという政府の決定について、対外でなく国内の事情を優先させるのかとか、安倍政権は戦前に戻りたいのかという奇妙な批判が一部で沸いている。
 われわれは欧米の人名を国内で呼称するとき、例えば現米国大統領は「ドナルド・トランプ」とする。ミドルネームはあちらでも省略されることがあるから今は考えないとして、ファーストネーム・ファミリーネームの順が正しい呼び方だからだ。彼らが正しいとする順の読みに従うことが、彼らの文化や人格を尊重することであり、日本では姓を先にするからトランプドナルドと呼ぶべきだ、という愚かな主張は国内でも通らない。それぞれの文化の尊重は、可能な範囲でなされることが望ましい。
 そしてまた彼らも、日本では日本に合わせてトランプドナルド式で呼ぶことを求めたりはしない。それは他文化を尊重していないからではなく、そのような名称の大統領は存在しないからだ。同様に「安倍晋三」という人物は存在するが、この総理大臣の名は決して晋三安倍ではなく、そんな人物は存在しない。大統領は総理大臣を シンゾー・アベと呼んでいるだろうが、それは今までこちら側がその順で自己紹介しているからである。
 存在しない人物の名称をわざわざ用いることがおかしなことだった、と考えるべきだろう。しばしば日本は欧米追従で、米国のポチなのかと批判されるが、欧米に合わせて自らの名称を変えることこそが、まさに欧米追従である。他文化を尊重すると同時に、自文化をもちろん尊重する精神が健全な文化尊重と言えよう。
 余談だが、日本名のローマ字表記を姓名の順にすることを妙に政権批判へと結びつけようとする思想的偏向者はともかく、そうでなくても戸惑っている意見も見られることについては、やや不思議な感じを持っている。なぜなら今からすでに20年ほど前から、某学会誌では論文における日本人名のローマ字表記を、そのまま姓名にするようになっているからだ。別に保守的な学会ではなく、左巻きに牛耳られたよくある学会である。その会誌では和辻哲郎なら WATSUJI Tetsuro と表記し、姓を大文字にして混乱を防いでいる。いま試みに上記のローマ字名でヤフー検索してみると、一頁目に出てくる11件のうち、欧米式の順で表記されているのは2件のみだった。すでに日本名なら姓名の順で書くことが定着しつつある、という現状ではなかろうか。

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神威の発現 [皇室]

 即位礼正殿の儀が行われた本日、東京は朝から強い雨だった。『日本書紀』で草薙剣が尾から出ることになる八岐大蛇について、この大蛇の上には常に雲があるゆえに本名を天叢雲剣というのかと記されているために、朝からの雨は天叢雲剣の力によるのだろうといったツイートが多かった。この特別な日に、神器のひとつである神剣が、しかも草薙剣ではなく天叢雲剣の名でトレンドになっているという奇妙な光景である。ただ、熱田神宮の草薙神剣と皇居の神剣を混同したつぶやきが多かったのは、確かな知識ではなく、ゲームやアニメからの影響だろう。
 そして儀式が始まるあたりから雨が止み、都内各地で陽も差して虹が出ている、ということが話題になった。すると今度は天照大神の力によるのかといったツイートが増えた。確かに都内のわが自宅からも、儀式の少し前から陽が差してきて、儀式が終わると隠れ、再び薄暗くなったことを確認している。もちろん偶然といえば偶然だが、特別な日のごく限られた時間にこのようなことが起こるのは、神威の発現といったものではなかろうかと思いたい。

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不要な不要論 [国語]

 ツイッター発信の漢文不要論とやらが話題になった。まず思うのは、子供ならいざ知らず、いい年をした大人が近視眼的に「不要」を語ることの愚かしさである。なんとか不要論というものの大半は、それを唱えている人の限られた知識と価値観を根拠としており、本当に不要かそれとも必要か、ツイッターの限られた文字数の中では議論どころか、問題提起することすら言葉足らずで意味はないと感じた。
 学問や文化伝統の類は複雑に諸要素が絡み合っており、学者ですらその全体像や諸要素の繋がりを把握するのは難しい。容易に生半可な知識や感覚だけで、必要不必要や、役に立つ立たないの判断が下せるものではなかろう。
 件の発信者は、日本式の漢文の読み方ではなく中国語で教えて欲しかったとも言っているが、まったく筋違いで、中国語なら外国語の習得であり、中高の古文の授業で習える代物ではない。漢文の読み方というのは、そんなに手間暇かけなくとも簡単に理解するためのテクニックに過ぎないものであって、もちろんそれは、その技術を習得する必要性があるから培われてきたもので、そして今でも必要だからこそ存在している。
 漢文を簡単に読む技術など要らないというなら、それは単に、戦前までの長い期間において日本人が書き継いできた言葉の歴史や価値を知らない、といった無知無教養ゆえということになる。歴史や文化の土台は言葉であり、その言葉はたとえ時代とともに変化しても、大和言葉に漢語、そして片仮名言葉まで絡み合って現在の日本語が形成されている。今の自分に見えていない、必要としていないからといって蔑ろにするのは、見えない生態系の繋がりを無自覚に断ち切って自然環境を破壊する愚行と同じである。

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差別語としての宗教 [宗教]

 某タレントが某政党に投票した人たちについて、気持ち悪い、ふざけている、宗教的、といった評価の発言をし、党首が激怒しているという件、世間的には党首の奇矯な言動に対する不信感のせいか、あまり某タレントへの批判が高まっているようではないように見える。
 しかしこれは、党首の言動はともかく、某タレントの発言そのものに大きな問題がある事案だろう。政治家当人への批判なら、それが確とした根拠を伴っている限りは問題ないだろうが(根拠を伴わない雰囲気のみの批判が大部分ではあるが)、投票者にどのような動機があったにせよ、投票という行為を推測で罵倒される筋合いはない。
 推測とはいえ感じた批判的感情を主張する権利があるのだとしても、その批判に「宗教的だ」という文言が使用されるのはまたどうかと思われる。この場合の宗教的というのは、非理性的な盲信という意味合いで使われているのが明らかで、このような使用例は投票者への愚弄のみならず、宗教に対しての偏見と侮蔑を意味する。信仰=盲信と決めつけた上での信仰者に対する嫌悪感があるからこそ、批判的言辞においてこの言葉が用いられている。
 いわゆるスピリチュアリズム系のサイトを見ると、「当方は宗教ではありません」との但し書きが添えられていることが多い。またそれ系の書き込みにも批判する文脈で「まるで宗教みたい」とあったりする。宗教とは乗り越えなければならない過去の遺物という位置づけなのである。外から見れば、そういったスピ系の理屈や世界観には、批判的に使用される意味での「宗教」性が大部分を占めているように見えるのだが。
 特定の宗教や教団に対しての差別、宗教差別をしてはならないことは多くの人が理解しているだろう。にもかかわらず宗教そのものに対しては差別的な感情をもって語りがちである。話題になり印象に残るカルト的教団や、そのような教団に盲目的に従う人ばかりが宗教や信者ではないということに、もう少し目を向けるべきであろう。

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報道の萎縮とか [報道]

 沖縄県石垣市に陸上自衛隊が配備されることをNHKの番組が取り上げ、そのなかで殊更に近隣の河川をクローズアップし、あたかも水質汚染が懸念されるかのような放送をした。これに対して市議会が偏向報道であると抗議決議をしたため、NHK側は謝罪した、という。
 ネット配信に拠ればこのような経緯が沖縄タイムスによって報道されているのだが、その記事の文末に、市議会の抗議決議に対して「識者らからは報道が萎縮することへの懸念が示されている」と記されている。
 識者というのが具体的に誰なのかは分からないが、そのような問題についての発言をする知識を有する者ということだから、耳を傾けなければならない意見として特筆されているのであろう。素人の意見よりは専門家の意見を尊重するべきで、絶対とまでは言えなくとも、専門家の意見の方が正しい可能性が高い。
 つまり、このような場合の「識者の懸念」は、より正しい意見という意味であって、沖縄タイムスは市議会の抗議決議を批判的に見ているわけだ。マスコミの放送や報道に虚偽や偏向があろうと、それに権力側が文句をつけるのは報道の萎縮をもたらすから、黙ってろ、ということである。
 萎縮を盾に取って自らへの批判を封じるというのは、すでにいろんなところでも指摘されているように、まったく卑怯としか言いようがない。そもそも権力側から批判されても、マスコミは萎縮するどころか、逆に権力側への批判をヒートアップさせるばかりであり、このような「弱者的立場」を装って自己正当化しつつ他者を上から目線で威嚇することを、マスコミの人間は情けないと思わないのだろうか。
 ただの偵察飛行に、威嚇された、怖かった、と弱者を演じ、それを盾にして反撃の正当性を主張した某国の軍人と同じ性格であり、本当に呆れるほどマスコミの人間と彼らはよく似ている。

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細縁亀虫 [雑感]

 先日、部屋のカーテンに虫がとまっていて、ああ蜂がいるな、と思った。エアコンの管と壁の隙間から、以前に何度か黒っぽい蜂が入って来たことがあったのである。甚だしいときは三日連続して入ってきた。またあるときには、数日間留守にして帰宅すると、三匹の蜂が部屋を飛び回っていたりもした。隙間を埋めるパテを巣の材料として狙ってくるのかと思ったが、真偽は不明。しかし隙間は数年前にしっかりと補修し、以来、蜂の侵入はなくなっている。
 件の蜂らしき虫はおとなしく動きが少ないため、透明のカップ内に捕獲し、観察してみた。すると蜂ではなく、羽根のない細い鈴虫といった感じに見える。さてこれは何という虫だろうかと疑問に思う。だが調べる手段はない、と諦めたものの、取りあえずネットで「虫」と「調べ方」で検索すると、昆虫エクスプローラというサイトが見つかった。その「見た目からさがす」の項で、色と大きさに該当する箇所をクリックし、表示される虫の写真の中に件の虫を発見。ホソヘリカメムシと判明した。調査の諦念と奮起から決着まで、ほんの数分である。改めてネットって便利だな(笑)と実感した。
 以前なら、謎の虫が部屋に現れた、という、ただそれだけのことだったものが、簡単に名前までわかるというのは、まったく驚くべきことだ。この虫の名前を知ることが今の自分に何かしらの意味があるわけではなく、簡単に忘却してしまうだろうし、そうなっても何の不都合もない。しかし役に立たなくとも、それができるシステムの存在が当たり前になっている現実に改めてすごいと思ったのである。
 以前に侵入してきた蜂については、スズメバチのような獰猛な顔と黒っぽい色という記憶を頼りにざっと調べてみても、残念ながら特定には到らない。基本的に昆虫にはほとんど興味がないので、これ以上は調べる気もないのだが、それでも条件さえ揃えば上記のように簡単に判明するから驚きなのである。無駄なように思えても、知識や手段の選択肢の幅が拡がることは、とりあえずは良いことだろう。

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手水、てみず [国語]

 ヤフーニュースに、読み間違えやすい漢字についての短い記事があった。その記事に神社仏閣で手を清める「手水」が取り上げられ、これを「てみず」と読むのは恥ずかしい間違いで、正しくは「ちょうず」と読むのですよ、といったことが解説されていた。
 確かに「ちょうず」とは読むが、当の神社関係者の間では普通に「てみず」と読んでいる筈である。なんだかなあとコメント欄を見ると、さすがに「いや、てみずで間違ってないですよ」といった書き込みが並び、さほど特殊な読みではないと少し安心した。ネット検索すれば、すぐに「ちょうず」と「てみず」のどちらでも通用することが知られるというのに、いいかげんな記事だなと思っていたのだが、その記事には数冊の参考文献も掲げられている。
 一応は調べた上での記事ということになるが、結局は本よりもネット検索の方で正しい知識が得られるという例である。本に書かれているからといって正しいとは限らず、おそらく、その参考文献には手水を「ちょうず」と読むことだけしか記載されていなかったのだろう。手元にあるその手の本で確認しても、「手水場」の読みに「ちょうずば」としかなく、今この文章を書いている日本語入力ソフトでも「てみず」「てみずば」「てみずしゃ」「てみずや」といった言葉は登録されていない。
 手水は「ちょうず」と読む。それは正しい。したがって参考文献が間違っているわけではない。ただし、ひとつの言葉に対して深く掘り下げた解説がされているわけではないから、大部分は省略される。この言葉に限らず、たいていのことには、ひとつの意味や答えだけでない複雑で多岐にわたる背景があるわけで、辞書や解説本そしてもちろんウィキペディア等においても、確認する際には大部分の省略されている事実を「間違い」と思い込まないようにすることが肝要である。

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丁寧な反論 [政治]

 最近の対韓政策において不思議に思うのは、小野寺元防衛大臣の発言が最初かと思うが、「丁寧な無視」をするべきという意見で、これに賛同する人が多いことだ。もちろんこの無視というのは、居ないかのように扱う陰湿ないじめのような態度ではなく、泥仕合にならないように冷静に対処するということである。しかし、本当にそれでいいのか疑問に感じてしまう。
 批判や反論の応酬というのは傍から見れば泥仕合に見えるだろうが、虚偽やごまかしに対してきっちりと事実を突きつけることは、徒労に思えても国際社会においてはやるべきことと考える。なぜなら国際間の歴史的経緯や政策を客観的に把握することに努めている人というのは国外においてはごく一部であり、大多数の傍から見ている人たちというのは基本的に、声の大きな意見に耳を傾け、嘘か真実かはともかく、その大きな声の意見を記憶するものだからだ。そしてその大多数の認識というものは馬鹿にできない。南京の虐殺とやらの問題にしても慰安婦の問題にしても、すでに定着してしまった認識に異議を唱えると、たとえ新たに見つかった史料や徹底した検証が根拠であっても、「正しい歴史」を覆す犯罪的な行為と非難されたりする。
 数年前に米国のノーベル経済学賞受賞者が「安倍首相は南京虐殺を否定するひどい人物と聞いていたが、その経済政策は正しい」といったことを発言していた。高度な知性の持ち主でさえ不確かな誹謗を元に他国の公人の評価を口にし、定着した怪しげな主張を疑うべからざる常識として認めてしまうのである。
 今後、よほどの何かどんでん返しが起こらない限り、韓国内においては2019年に日本が過去を反省することなく経済「侵略」を仕掛けたと主張され、そのように教育され、対外的にも日本を貶め続けるだろう。信頼できる根拠がなく矛盾点だらけであっても、長年のプロパガンダによってまた新たな創作が歴史的事実だと常識化されてしまうかもしれないのである。そうさせないためにも、虚偽の主張に対してはひとつひとつ丁寧に反論し、潰し続ける必要があるのではなかろうか。

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アンパンチと暴力 [雑感]

 アンパンチの影響で子供が暴力的になったとかいう指摘は、すでにあちこちで言われているように、取るに足らない愚かしい指摘だろう。力の行使を一律に否定すべき暴力としか見ないような偏った思想から、その親が影響を受けているのかもしれない。あるいは、子供を教育する意識が親に希薄で、子供の思い違いを正すことをしないまま、ただ指を咥えてみているだけなのだろう。
 とはいえ以前にも書いたように、自身はアンパンマンというアニメを好きにはなれない。その理由はいくつか挙げているが、ついでながら、こちらもまったく取るに足らない指摘に過ぎないが、いくつか追加しておく。
 空腹となっている相手の好き嫌いを確認することなく、自分の顔をちぎって渡す。このような押しつけは断りづらい。顔をちぎってまでして渡されたものは、嫌でも受け取らざるを得ないではないか。相手がカレーパンマンのように甘い物が苦手だったら、とてつもない苦痛を与えることになる。相手のことを考えない善意の押しつけである。
 ばいきんまんに攻撃されている者を助けたとき、まだ戦いの最中なのに「大丈夫ですか~?」と心配を表明する。これが実に慇懃無礼な口調で、感謝を強要しているかのように見えてしまう。
 幼い子供が野外において「お腹が空いた」と泣いている、異様な世界。
 そしてこれは以前にも書いたが、割と本気で問題だと思うことがある。同じような悪に加担しているにも関わらず、ばいきんまんは懲罰を受けてもドキンちゃんは多くの場合、そそくさと場を離れるだけで許されるのである。初期の頃は二人ともにぶちのめされていたが、いつしかばいきんまんだけがやられ役になっている。女の子に暴力を振るってはいけないという教育的な配慮と思われるけれども、ならばアンパンチは単なる暴力行為ということになってしまわないか。そして女の子は男の子と違って、悪いことをしても大丈夫なのだという偏った価値観や倫理観を育むことになりはしないだろうか。割と、本気でそう思っている。

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お米の権威 [雑感]

 ずいぶんと前から、スーパーで買うお弁当の御飯が右側に詰められていることを不思議に思っていた。左右の判断は蓋に貼られているシールおよびおかずの配置から下している。御飯は左側という子供の時からの感覚からすれば違和感が半端なく落ち着かないので、弁当の左右を逆に、つまり御飯を左側にして食すも、右側御飯で中身が配置されているために引っかかりがある。しかしそれでも御飯を右にする不安定さよりもましとなる。
 ふと思い立って検索してみたら、右側御飯にするのはいくつかの理由があるらしい。面倒なのでここにその理由は書かない。だが根拠があったとしても、弁当ではなくお茶碗で御飯を食べる場合は左側に置くことが基本なのだから、腑に落ちない人も多いのではなかろうか。御飯はスーパーの弁当しか食べないという人にとってのみ、収まりのつく処置であろう。
 さて、本来の御飯を左側に置くという作法は、理由のひとつとして、左側が右よりも優位だからとも説明されている。お米は日本神話に天照大神から授けられたともされる尊い穀物なのである。だが単純に考えれば、大多数が利き手となる右手に箸を持った場合、主食となる御飯は左手に持つため、左側に置くというだけだろう。
 とはいえ、御飯、お米は尊いゆえに左側に置かれるという説明がなされるほどに大事な食べ物であることは確かであり、その意味では現代的な何かしらの根拠をもって簡単に右側へと格下げされ権威が軽んじられているように見えるのは、なんとなく物悲しさを感じてしまう。

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