知性の自決 [雑感]
数日前に入水自殺を遂げた西部邁氏が平成六年に書いた『死生論』に、次のような記述がある。引用はハルキ文庫版(平成九年)による。
「私は死が間近になったとき、たぶん、自殺すると思う。(略)たとえば癌になって、(略)私がどう振る舞うかといえば、ぎりぎりまで生きているのは厄介だと判断する。限界まで堪えてしまうと、死ぬ気力もなくなったり、肉体的かつ精神的なセルフコントロール(自己制御)も利かなくなる。したがって、そこにいく前に自殺しなければならない。」
「私なりに好ましいと思う死の形態にあっさり名前を与えてしまうと、それは『簡単死』あるいは『簡便死』である。」
「簡便死はかならずしも医者の助けを借りるものではない。自殺用の薬品が法律の網目をくぐって入手できるなら、それを使用してもよい。もっと簡便な方法をというのなら入水でもいいのである。ただし、入水の場合、近所の川や海というのでは、浮かんだ死体の様子がたいへん醜いことが多く、それが遺族の気持をいっそう傷つけることになる。」
簡便死は、いざとなれば親族に余計な苦痛を与える前に簡単に死ぬこと、延命のための薬品や装置を自力で拒否しうる段階で自分の判断により死を迎える自殺のことである。西部氏はこの簡便死という自殺によって死ぬことを公言し、自分の中に飼い慣らしつつ、本当に実行したということだ。
親族がすぐに通報したそうだから、冷たい冬の川で確実に死を迎え、なおかつ遺体が酷くなる前に引き揚げられるよう計算してのことだったのだろう。
しかしそれにしても、多少は何かしらに対する失望はあったかもしれないが、絶望などによってつい悲嘆のあまり死を選ぶということではなく、はじめから自分の死の方法を定めて訓練し、実行するというのは、まったく文字通り恐れ入る。同書によれば西部氏は宗教的な世界観をまったく信じてなく、死はすなわち自己の消滅と理解し、その上で、年相応の衰えはあっただろうが明晰な知性によってその知性自らの消滅を果たした。三島由紀夫の自決と同様、生きることや死ぬことについて、いろいろと考えさせられる。
「私は死が間近になったとき、たぶん、自殺すると思う。(略)たとえば癌になって、(略)私がどう振る舞うかといえば、ぎりぎりまで生きているのは厄介だと判断する。限界まで堪えてしまうと、死ぬ気力もなくなったり、肉体的かつ精神的なセルフコントロール(自己制御)も利かなくなる。したがって、そこにいく前に自殺しなければならない。」
「私なりに好ましいと思う死の形態にあっさり名前を与えてしまうと、それは『簡単死』あるいは『簡便死』である。」
「簡便死はかならずしも医者の助けを借りるものではない。自殺用の薬品が法律の網目をくぐって入手できるなら、それを使用してもよい。もっと簡便な方法をというのなら入水でもいいのである。ただし、入水の場合、近所の川や海というのでは、浮かんだ死体の様子がたいへん醜いことが多く、それが遺族の気持をいっそう傷つけることになる。」
簡便死は、いざとなれば親族に余計な苦痛を与える前に簡単に死ぬこと、延命のための薬品や装置を自力で拒否しうる段階で自分の判断により死を迎える自殺のことである。西部氏はこの簡便死という自殺によって死ぬことを公言し、自分の中に飼い慣らしつつ、本当に実行したということだ。
親族がすぐに通報したそうだから、冷たい冬の川で確実に死を迎え、なおかつ遺体が酷くなる前に引き揚げられるよう計算してのことだったのだろう。
しかしそれにしても、多少は何かしらに対する失望はあったかもしれないが、絶望などによってつい悲嘆のあまり死を選ぶということではなく、はじめから自分の死の方法を定めて訓練し、実行するというのは、まったく文字通り恐れ入る。同書によれば西部氏は宗教的な世界観をまったく信じてなく、死はすなわち自己の消滅と理解し、その上で、年相応の衰えはあっただろうが明晰な知性によってその知性自らの消滅を果たした。三島由紀夫の自決と同様、生きることや死ぬことについて、いろいろと考えさせられる。
ご指摘の通り、考えさせられます。
特に年齢の近い自分にとって・・・
by LargeKzOh (2018-01-25 22:28)
こんな閑散としたブログに書き込みありがとうございます。
西部氏の死に方は決して万人向けではありませんが、根底にある「覚悟」については学ぶべきかと思います。
自分には諦めはあっても、覚悟は何もないものですから。
by tomi (2018-01-28 21:08)