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暴力の範囲 [社会]

 いくつかの単純な理念を拡大解釈して絶対視することが、現代社会を混乱させている元凶だ。それらは一見、誰もが反対できない理念であるだけに、異議を唱えると反社会的思想の持ち主であるが如きレッテルを貼られ、攻撃されてしまう。
 そのひとつは「暴力反対」。これを支持しない者は危険だ。しかし拡大解釈の結果、侵略者に抵抗する行為ですら否定されるという、もはや狂ってるとしか言いようのない主張が幅を利かせるといった愚かな事態まで招いてしまっている。
 暴力の範囲すら解らなくなっている人間が多い。その結果、自分の社会を守ることができなくなったり、しつけのレベルの行為が暴力と見なされたり、しつけのつもりで暴力が振るわれたりする。
 数年前ある専門学校で授業を持っていたとき、教室に入ると、最前列の女生徒が机に突っ伏して寝ていた。配布するつもりのプリントの束でその頭を叩き(刺激を与えるといった程度で決して痛みを与えるほどではない)、その生徒は自然に「ん?」と目を覚ましてそのまま授業を聞いていた。
 よくある光景なのだが驚いたことにその生徒は、私に暴力を振るわれた、と事務に訴えた。幸いにも事務は誤解することもなく問題にはならなかった。たたその後、もっと驚いたことに、この話を知人の高校教師に話したところ、そういう現状だとまったく驚きもしなかった。

 小学五年生のときだったか、珍しく社会科の教科書を忘れたことがあった。授業が始まるのに教科書がカバンに入ってなく、なぜ持ってこなかったのだろうと焦った。そして授業が始まって社会科の教師は、教科書を忘れた自分を立たせ、なぜ忘れたのかと問い質した。答えようがない。忘れたことに自身が驚き、狼狽えているのだ。忘れた理由などまったく思いつかない。理不尽な尋問にどう答えたらいいか解らず困っていると、教師は教卓へと呼び寄せ、拳骨で思いっきり三発、脳天を殴った。
 殴られて涙目となり再び黙ったまま机に戻った。教師は、「ふて腐れた態度をとりやがって」といったことを言った。ふて腐れていたのではない。答えられない質問に窮していたのだ。このときほど無理解な教師を憎らしく思ったことはない。
 自分としてはこれは教師による暴力だ。しかし、もし自分がふて腐れて教師に反抗的な態度をとった結果としての拳骨ならば、それは暴力ではないし、またそのときの教師自身も単なる暴力を振るったつもりではないだろう。
 こういう行き違いがあるからすべてを暴力と一括りにするというのも、また愚かな話だ。まあ、暴力としつけに明確な区別をつけることは難しいだろうけれども。


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